国枝史郎「柳営秘録かつえ蔵」(05) (りゅうえいひろくかつえぐら)

国枝史郎「柳営秘録かつえ蔵」(05)



「貴郎《あなた》、ご注意遊ばさねば……」
 こう云ったのは奥方であった。
「うむ、お杉と三之丞か」
 主計はむずかしい顔をしたが、
「何とかせずばなるまいな」
「どうぞ貴郎から三之丞へ。……妾《わたし》からお杉へ申しましょう」
「うむ、そうだな、そうしよう」
 翌日三之丞が遊びに来た。
「三之丞殿、ちょっとこちらへ」
 主計は奥の間へ呼び入れた。
「さて其許《そこもと》も二十二歳、若盛りの大切の時期、文武両道を励まねばならぬ。時々参られるのはよろしいが、あまり繁々《しばしば》来ませぬよう」
 婉曲に諷したものである。
「はっ」と云ったが三之丞には、よくその意味が解《わか》っていた。で頸筋を赧《あか》くした。
 その夜奥方はお杉へ云った。
「其方《そなた》も今は旗本の娘、若い男とはしたなく[#「はしたなく」に傍点]、決して話してはなりませぬ」
 こうしてお杉と三之丞とは、その間を隔てられた。隔てられて募らない恋だったら、恋の仲間へは入らない。おりから季節は五月であった。蛍でさえも生れ出でて、情火を燃やす時であった。蛙でさえも水田に鳴き、侶《とも》を求める時であった。梅の実の熟する時、鵜飼《うかい》の鵜さえ接《つ》がう時、「お手討ちの夫婦なりしを衣更《ころもが》え」不義乱倫の行ないさえ、美しく見える時であった。
 二人は恋を募らせた。
 お杉はすっかり憂鬱になった。そうして心が頑固《かたくな》になった。ろくろく物さえ云わなくなった。そうして万事に意地悪くなり、思う所を通そうとした。
 三之丞は次第に兇暴になった。
 恐ろしいことが起こらなければよいが!

 それは夕立の雨後の月が、傾きかけている深夜であった。新吉原の土手八丁、そこを二人の若い男女が、手を引き合って走っていた。
 と、行手から編笠姿、懐手《ふところで》をした侍が、俯向きながら歩いて来た。擦れ違った一刹那、
「待て!」と侍は忍び音に呼んだ。
「ひえッ」と云うと男女の者は、泥濘《ぬかるみ》へペタペタと膝をついた。
「どうぞお見遁し下さいまし」
 こう云ったのは男であった。見れば女は手を合わせていた。
 じっと見下ろした侍は、
「これ、其方《そち》達は駈落だな」
 こう云いながらジリリと寄った。陰森たる声であった。一味の殺気が籠もっていた。
「は、はい、深い事情があって」
 男の声は顫《ふる》えていた。
「うむ、そうか、駈落か。……楽しいだろうな。嬉しいだろう」
 それは狂気染みた声であった。
「…………」
 二人ながら返辞が出来なかった。
「そうか、駈落か」とまた云った。
「うらやましいな。……駈落か、……よし、行くがいい、早く行け……」
「はい、はい、有難う存じます」
 男女は泥濘へ額をつけた。刀の鞘走る音がした。蒼白い光が一閃した。
「むっ」という男の息詰った悲鳴、続いて重い鈍い物が、泥濘へ落ちる音がした。男の首が落ちたのであった。
「ひ――ッ」と女の悲声がした。もうその時は斬られていた。男女の死骸は打ち重なり、その手は宙で泳いでいた。と、女の左手と男の右手とが搦み合った。月が上から照らしていた。血が泥濘へ銀色に流れ、それがピカピカ目に光った。
 茫然と侍は佇んだ。二つの死骸を見下ろした。女の衣装で刀を拭い、ゆるくサラサラと鞘へ納めた。
「可《い》い気持だ」と呟いた。
「お杉様!」と咽ぶように云った。
 それから後へ引っ返した。





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