国枝史郎「柳営秘録かつえ蔵」(07) (りゅうえいひろくかつえぐら)

国枝史郎「柳営秘録かつえ蔵」(07)



 浅草の夜は更けていた。馬道二丁目の辻から出て、吾妻橋の方へ行く者があった。子供かと思えば大人に見え、大人かと思えば子供に見える、変に気味の悪い人間であった。
 と一人の侍が、吾妻橋の方からやって来た。深編笠を冠っていた。憂いありそうに俯向いていた。まさに二人は擦れ違おうとした。
「待て」と侍は声を掛けた。
「何でえ」と小男は足を止めた。
「連れはないか? 女の連れは?」
「いらざるお世話だ、こん畜生」
 小男は勇敢に毒吐いた。
「片眼で傴僂《せむし》のこの俺を、馬鹿にしようって云うんだな。誰だと思う鬼小僧だ!」
「何、鬼小僧? それは何だ?」
「うん、昔は手品師さ。だが[#「だが」に傍点]今じゃア形学《けいがく》者だ! 紙鳶堂《しえんどう》主人平賀源内これが俺らのお師匠さんだ。手前なんかにゃア解るめえが、形学と云うなア形而《かたちの》学問だ! 一名科学って云うやつだ。阿蘭陀《オランダ》仕込みの西洋手品! 世間の奴らはこんなように云う。もっと馬鹿な奴は吉利支丹《キリシタン》だと云う。ふん、みんな違ってらい! 本草学にエレキテル、機械学に解剖学、物理に化学に地理天文、人事百般から森羅万象、宇宙を究《きわ》める学問だア! もっとも馬鹿野郎の眼から見たら、手品吉利支丹に見えるかもしれねえ。……おお、侍《さむれえ》それはそうと、お前さん一体何者だね?」
 深編笠の侍は、それには返辞をしなかった。彼は懐中《ふところ》へ手をやった。取り出したのは小判であった。
「これをくれる持って行け。なるほどお前の風貌《かおかたち》なら、美しい女に恋されもしまい。気の毒だな、同情する。俺はそういう人間へ、充分同情の出来る者だ。恋などするな、恋は苦しい。……さあ遠慮なく金を取れ。そうして酒でも飲んでくれ」
「馬鹿にするない! 乞食じゃアねえ」
 鬼小僧はすっかり怒ってしまった。
「だが、おかしな侍だなあ。どう考えてもおかしな野郎だ。ははあ失恋で気がふれたな。……せっかくの好意だが受けられねえ」
「そう云わず取ってくれ。俺はそういう人間なのだ。女連れと見ると斬りたくなる。若い男が一人通ると、俺は金をやりたくなる」
 これを聞くと鬼小僧は、後ろへピョンと飛び退いた。
「それじゃア手前は『夫婦《めおと》斬り』だな! こいつア可《い》い所で邂逅《ぶつか》った。逢いてえ逢いてえと思っていたのだ。ヤイ侍よく聞きねえ。俺はな、今から十日前まで、紙鳶堂先生のお側《そば》に仕え、形学の奥義を究めていたものだ。印可となってお側を去り、これから長崎へ行くところだ。そこでもっと[#「もっと」に傍点]修行するのよ。ところで久しぶりで市《まち》へ出てみると、夫婦斬り噂で大騒ぎだ。そこで俺は決心したのだ。よくよくそういう無慈悲の奴は、俺の形学で退治てやろうとな。で今夜も探していたのさ。ここで逢ったが百年目、さあ野郎観念しろ!」
 云い捨て懐中へ手を入れると一尺ほどの円管《つつ》を出した。キリキリと螺施《ねじ》を捲く音がした。と、円管先から一道の火光が、煌々然と閃めき出た。
「眼が眩んだか、いい気味だ! エレキで作った無煙の火、アッハハハ驚いたか! 古風に云やア火遁《かとん》の術、このまま姿を隠したら、絶対に目つかる物じゃアねえ。……や、刀を抜きゃアがったな! さあ切って来い、来られめえ! おっ、浮雲《あぶね》え!」と鬼小僧は、突然円管先の光を消した。
 光の後の二倍の闇、闇に紛れて逃げたものか、鬼小僧の姿は見えなかった。





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