国枝史郎「生死卍巴」(01) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(01)

占われたる運命は?

「お侍様え、お買いなすって。どうぞあなた様のご運命を」
 こういう女の声のしたのは享保十五年六月中旬の、後夜《ごや》を過ごした頃であった。月が中空に輝いていたので、傍らに立っている旗本屋敷の、家根の甍《いらか》が光って見えた。土塀を食《は》み出して夕顔の花が、それこそ女の顔のように、白くぽっかりと浮いて見えるのが、凄艶の趣きを充分に添えた。
 その夕顔の花の下に立って、そう美女が侍を呼びかけたのであった。
「わしの運命を買えというのか、面白いことを申す女だ」
 青木昆陽の門下であって、三年あまり長崎へ行って、蘭人について蘭学を学んだ二十五歳の若侍の、宮川茅野雄《みやかわちのお》は行きかかった足を、後《あと》へ返しながら女へ云った。
「買えと云うなら買ってもよいが、運命などというものはあるものかな?」
 云い云い女をつくづくと見た。女は二十二三らしい。身長《たけ》が高く肥えていて、面長の顔をしているようであった。どこか巫女《みこ》めいたところがある。
「はいはい運命はございますとも。定まっているのでございますよ。あなた様にはあなた様の運命が。私には私の運命が」
「さようか、さようか、そうかもしれない。もっともわし[#「わし」に傍点]は信じないが。……ところで運命は、なんぼ[#「なんぼ」に傍点]するな?」
「それではお買いくださいますので。ありがたいしあわせに存じます。はいはい、あなた様の運命の値段は、あなた様次第でございます。一両の運命もございますれば、十両の運命もございます」
「なるほど」と茅野雄は苦笑したが、
「つまりは易料や観相料と、さして変わりはないようだの」
「はいはいさようでございます」と女の声も笑っている。
「それではなるだけ安いのにしよう。一分ぐらいの運命を買いたい」
「かしこまりましてございます」
 こう云うと女は眼をつむって、空を仰ぐような格好をしたが、
「山岳へおいでなさりませ。何か得られるでござりましょう。都《みやこ》へお帰りなさいませ。何か得られるでござりましょう。それが幸福か不幸かは、申し上げることは出来ません」
 ――で、女は行ってしまった。
(浮世は全く世智辛《せちがら》くなった。何でもない普通の占いをするのに、運命をお買いなさいませなどと、さも物々しく呼び止めて、度胆を抜いて金を巻き上げる。男でもあろうことか若い女だ。昼でもあろうことか更けた夜だ)
 茅野雄は、苦笑を笑いつづけながら、下谷の方へ歩き出した。そっちに屋敷があるからである。
 ここは小石川の一画で、大名屋敷や旗本屋敷などが、整然として並んでいて、人の通りが極めて少ない。南へ突っ切れば元町《もとまち》となって、そこを東の方へ曲がって行けば、お茶の水の通りとなる。
 その道筋を通りながら、宮川茅野雄は歩いて行く。女巫女の占った運命のことなど、今はほとんど忘れていた。
(仕官しようか、浪人のままでいようか)
 この日頃心にこだわっている、この実際的の問題について、今は考えているのであった。
(せっかく仕官をしたところで、長崎仕込みの俺の蘭学を、活用してくれなければ仕方がない。それよりもいっそ塾でもひらいて、門弟どもをとり立てようか)
 師匠の青木昆陽が、その世間的の勢力をもって、茅野雄を諸侯に[#「諸侯に」は底本では「諸候に」]推薦していたが、肝心の茅野雄の心持は、大して進んでいなかった。と云って塾をひらいたところで、はたして生活が出来るかどうか? これが茅野雄には不安であった。どっちつかずの心持で、長崎から帰って今日で半年、ブラブラ遊んでいるのであった。放胆で自由で新智識で、冒険心もある茅野雄だったので、そういう今のような境遇にあっても、あえて焦心《あせ》りはしなかったが、多少の屈託にはなっていた。
(青木先生の食客となって一生冷や飯を食うのもいいさ)などと磊落に思うこともあった。
(父母もなければ兄弟もなく、親戚《みより》もないということが、こんな場合にはかえって気安い)
 しかし時にはそういうことが、寂しみとなって感ずることもあった。
 宮川茅野雄は歩いて行く。
 と、青木侯[#「青木侯」は底本では「青木候」]のお屋敷の、土塀を左へ曲がった時に、先へ行く二つの人影を見た。一人は、若い侍で、背後《うしろ》姿ではあったけれど、何とも言えない品《ひん》と位《い》がその体に備わっていた。もう一人は、六十を過ごしたくらいの、頑丈らしい老武士であったが、これも品位を備えていた。
(追い抜いては失礼にあたるだろう)
 で、茅野雄は後について歩いた。
 すぐに茅野雄の耳についたのは、二人の変わった会話《はなし》であった。
「ああいう品物を手に入れるのは、個人としては危険なのだよ。どうでもあれは昔に返して、亜剌比亜《アラビア》の沙漠の神殿の奥へ、封じ込まなければならないのだよ」
 こう云ったのは若い方の武士で、その云い方には特色があった。すなわちいつも他人に対して、絶対的服従を命じ慣れている――と云ったような云い方なのである。高貴で威厳があって断乎としているうちに、温情があふれ漲《みなぎ》っている。
「これは極東の教主《カリフ》様の、御意の通りと存じます」
 老将軍とでも形容したいような、頑健な老武士はこう応じたが、その声には一種の不快さがあって、信用の置けない老獪な人物――と云ったように感じられた。しかし極東のカリフ様と呼ばれた、若い気高い侍には、一目も二目も置いていると見えて、物言いも物腰も慇懃《いんぎん》であった。
「あの両眼がよくないのだよ。もちろん値打ちを知らない者には、変わった単なる石ッころ[#「ころ」に傍点]として、無価値の物に映るであろうが、知っている者には宇宙にも見えよう」
「これは極東のカリフ様の、お言葉の通りにござります。両眼の価値を知りました者には、宇宙にもあたるでござりましょう。が、幸いにもこの国には、ああいう物の偉大な価値を、知っておる者は少ないようで」
「いやいやそうでもなさそうだよ。わし[#「わし」に傍点]も知っていればお前も知っている」
「さあその他にございましょうかしら?」
「あの品物がこの国へ渡って、五年になると云うことだが、いまだに行衛《ゆくえ》がわからない。――ということから推察すると、われわれ二人以外の者で、あの両眼の素晴らしい価値を、知っている者が確かにあると――そう云うことも云われそうだよ」
「と、申しますと何者かが、あの品物を隠して持っている――と、このように仰言《おっしゃ》いますので?」
「さよう、わし[#「わし」に傍点]はそう思う」
「その反対とも申されましょう」
「はてな、それはどういう意味かな?」
「無価値な品物と見きわめ[#「きわめ」に傍点]られて、古道具屋の店先などに、転がされているのではござりますまいか?」
「もしそうなら面白いの」
「いえ勿体なく存じます」
「お前ひとつ探してはどうか」
「は。さようで。探し出しましょうか」
「好事家《こうずか》で名高いお前のことだ。探し出したらはなすまいよ」
「いえ、ご連枝様に差し上げます」
「これこれ何だ雲州の爺《おやじ》、いちいち極東のカリフ様だの、ご連枝様だのと呼ばないがよい。わし[#「わし」に傍点]とお前とは話相手ではないか。わしの名を呼べ、慶正《よしまさ》と呼べ」
「ハッ、ハッ、ハッ、呼びましょうかな」
 聞くともなしに聞いていた宮川茅野雄はこの言葉を聞くと、
「ははあ」と、呟《つぶや》かざるを得なかった。二人の身分がわかったからである。
 極東のカリフ様と呼ばれたり、ご連枝様と呼ばれたりする武士は、奇矯と大胆と仁慈と正義と、平民的とで名を知られている、一ツ橋大納言の弟にあたられる、徳川慶正卿その人であり、雲州の爺と呼ばれている武士は、出雲松江侯の傍流の隠居で、蝦夷《えぞ》や韃靼《だったん》や天竺《てんじく》や高砂《たかさご》や、シャムロの国へまで手を延ばして、珍器名什を蒐集することによって、これまた世人に謳われている松平碩寿翁《せきじゅおう》その人なのであった。
(立派な人物が二人まで揃って、面白い話を話して行く。高価な品物とはどんなものだろう? 両眼とは何の両眼なのであろう?)
 茅野雄は好奇心に心を躍らせて、尚も二人をつけ[#「つけ」に傍点]て行った。
(それにしても極東のカリフ様とは、一体どういう意味なのであろう?)
 これが茅野雄には疑問であった。
 ただし長崎におった頃、茅野雄は蘭人の口を通して、カリフという言葉と言葉の意味とを、一再ならず耳にはした。マホメットという人物を宗祖として、近東亜剌比亜《アラビア》の沙漠の国へ興った、非常に武断的の宗教の、教主であるということであった。
 で、これはこれでよかった。
 しかし極東の教主《カリフ》という、極東の意味が解らなかった。
(日本のことを極東というと、蘭人からかつて聞いたことはある。では極東の教主というのは、日本におけるマホメット教の、教主というような意味なのであろうか? ではいつの間にか日本の国へもマホメット教が渡来したのであろうか?)
 そう思うより仕方がなかった。
(それにしても一ツ橋慶正卿がそのカリフとは驚くべきことだ)
 考えながらも宮川茅野雄は、二人の後をつけ[#「つけ」に傍点]て行った。





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