国枝史郎「生死卍巴」(02) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(02)

松倉屋の家庭

 宮川茅野雄という若い武士に、後をつけ[#「つけ」に傍点]られているとも知らずに、極東のカリフ様と碩寿翁とは、ズンズン先へ歩いて行った。
 と、その時行く手にあたって、一軒の屋敷が立っていた。右は松平駿河守の屋敷で、左はこみいった[#「こみいった」に傍点]お長屋であったが、その一画を出外れた所に、その屋敷は立っていたのである。
 武家屋敷とは見えなかったが、随分と宏荘な作り方で、土塀がグルリと取り巻いていた。植え込みは手薄で門も小さくて、どこかに瀟洒としたところはあったが、グルリと外廊《そとがわ》を巡ったならば、二町ぐらいはありそうに見えた。
 富豪の商人の別邸と言ったら、一番似合わしく思われる。
 その屋敷の門の前まで、極東のカリフ様が行った時であったが、
「雲州の爺々《おやじおやじ》、この屋敷などあぶない[#「あぶない」に傍点]ものだ」
 こう云って顎をしゃくるようにした。
「は、あぶないと仰せられますと?」
 足をとどめた碩寿翁は、不思議そうに屋敷に眼をやった。
「これはお前には解らないかも知れない。が、私《わし》にはよく解《わか》る。ろくでもない[#「ろくでもない」に傍点]事が起こって来ようぞ」
「この屋敷へでござりますか?」
「ああそうだよ、この屋敷へだよ」
「ご三卿様のご用達《ようたし》、松倉屋の別邸だと存じますが、何事が起こるのでござりましょうか?」
「松倉屋の女房を知っているかな?」
「美人で派手好みで交際《つきあい》好きで、評判の女房にござります」
「そうして大分若いはずだ」
「二十三歳とか申しますことで」
「しかるに松倉屋勘右衛門は、六十一歳とかいうことだ」
「大分違うようでござりますな」
「で、よくないことが起こる」
「どうも私には解りませぬが」
「身分違いの持っていけない物を、松倉屋勘右衛門が持っているからだよ」
「…………」
 やはり碩寿翁には解らないらしい。黙って屋敷を見上げ見下ろしている。
「それ第一に年が違う。ええとそれから身分が違う。と云うのは女房のお菊というのは、富豪の商人の松倉屋などへ、輿入《こしい》れすることなど出来そうもない、貧しい町家の娘だそうだ。で女から云う時は、松倉屋の財産に眼が眩《く》れて、若さと美しさとを犠牲にしたのだし、松倉屋の方から云う時には、女の若さと美しさのために、財産とそうして位置と名誉とを、犠牲にしたということになる」
「が、しかしそのようなことは、世間にザラにありますようで」
「そう云ってしまえばそれまでだがな、いけない事情があるらしいよ」
 極東のカリフ様はこう云って来て、フッと話を横へ外らせた。
「松倉屋の前身を知っているかな?」
「抜け荷買いをしたとか聞き及びましたが」
「抜け荷買い、さよう、その通りだ。……で、異国の珍器の価値《ねうち》を、松倉屋勘右衛門は充分に知っとる」
「…………」
「それにお前に負けないほどに、好事家として有名だ」
「…………」
「五年以来《このかた》松倉屋の様子が、何となく変に変わって来た。私《わし》の屋敷へ出入りをするごとに、私におかし気な謎をかける。……がまあまあそれもよかろう」
 極東のカリフ様が歩き出したので、碩寿翁もつづいて歩き出したが、間もなく姿が見えなくなった。
 小出信濃守《こいでしなののかみ》の邸の前を通って、榊原《さかきばら》式部少輔の邸の横を抜けて、一ツ橋御門を中へ入れば一ツ橋中納言家のお邸となる。
 二人ながらその方へ行ったようである。
 で、月光に照らされながら、松倉屋勘右衛門の邸の前に、首を傾《かし》げて佇んでいるのは、宮川茅野雄一人となった。
(今夜は実際いろいろの人から、色々の面白い話を聞いた。松倉屋勘右衛門と女房との話も、俺にとっては面白かった。それとはハッキリと云わなかったが、一ツ橋様のお話の中には、莫大の価値のある何かの両眼と、松倉屋勘右衛門との間には、何らかのつながり[#「つながり」に傍点]がありそうだ)
 しかし、その事が宮川茅野雄の持ちつづけて来た好奇心を、急速に膨張させたのではなかった。
 そんなように思われたばかりであった。
(どれ家《うち》へ帰ろうか)
 で、茅野雄は歩き出した。
 しかるに十町とは歩かないうちに、茅野雄の身の上に不慮の事件が起こった。
 と、いうのは茅野雄は感付かなかったが、茅野雄が巫女《みこ》めいた若い女から、自分の運命を買った時から――いや巫女めいた女から別れて、極東のカリフ様と碩寿翁との、後をつけて足を運び出した時から、一人の武士が足音を盗んで、茅野雄の後をつけて来たが、この時俄然と茅野雄の背後《うしろ》から、声もかけずに切り込んだのである。
 茅野雄は蘭学の学究であったが、柳生流でも名手であった。で、背後から名の知れない武士に、俄然と切ってかかられた時にも、身を翻えして、刃を遁れた。
「誰だ!」と、まずもって声を掛けた。
「瞞《だま》し討ちとは卑怯な奴だ! 怨みがあるなら尋常に宣《なの》って、真っ正面からかかって来い! 身分を云え! 名を宣れ! ……拙者の名は宮川茅野雄という、他人に怨みを受けるような、曲事《きょくじ》をしたような覚えはない! 思うにおおかた人違いであろう。……それとも、拙者に怨みがあるか※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」
 こう云いながら宮川茅野雄は、刀の鍔際をしっかりと抑えて、五寸あまりも鞘ぐるみ抜いて、右手で柄もとを握りしめて、身を斜めにして右足を出して、いつでも抜き打ちの出来るように、居合腰をして首を延ばしたが、じっと前の方を隙《す》かして見た。
 漲っている蒼白い月の光を浴びて、宮川茅野雄から五間あまりの彼方《かなた》に、肥えた長身の三十五六歳の武士が、抜き身をダラリと引っ下げた姿で、こっちを見ながら立っていたが、髪は大束《おおたぶさ》の総髪であった。
 と、その武士は落ち着き払った態度で、ゆるゆると茅野雄へ近寄って来たが、
「宮川茅野雄殿と仰せられるか、はじめてお名前を承《うけたま》わってござる。拙者は醍醐《だいご》弦四郎と申して、身の上の儀はまずまず浪人、ただしいくら[#「いくら」に傍点]かは違いますがな。……いかにも貴殿の仰せられる通りに、拙者、貴殿に怨みはござらぬ。と云え貴殿の仰せられるように、人違いで切ってかかったのでもござらぬ。思うところあって切り付けたのでござる。と云うのは貴殿の運命と、――巫女から買い取られた運命と、拙者の運命とが似ているからでござる」
 こう云うとクックッと含み笑いをしたが、
「実は拙者も同じ巫女から、運命を買ったのでございますよ」
「ほほう」とそれを聞くと宮川茅野雄は、化《ば》かされたような気持ちがしたが、
「貴殿の買われた運命と、拙者の買い取った運命とが、似ているというようなそのようなことが、殺生沙汰を招きましょうかな?」
「運命を占った女巫女の、素性をご存知ない貴殿としては、そういう疑念を挿まれるのは、当然至極と存ぜられますよ。またあの巫女の占ったところの、『何か』得られるというその『何か』の、何であるかをご存知なければ、そういう疑念も挿まれましょうよ」
「それでは貴殿におかれましては、巫女の素性をご存知なので?」
「さよう、拙者は存じております」
「で、その『何か』もご存知なので?」
「さよう、拙者は存じております。と云うよりもこれはこう云った方がよろしい。――その『何か』を手に入れようとして、五年以来《このかた》探しておりましたとな」
「が、それにしても何の理由から、拙者を討とうとなされましたので?」
「競争相手を亡ぼしたかったからで」
「ほほう」とそれを聞くと宮川茅野雄は、また化かされたような気持がしたが、
「いやいや拙者におきましては、あの巫女の占った運命などは、決して信じはいたしませぬよ。したがって『何か』を手に入れようなどと、貴殿と競争などはいたしませぬよ。……と、このように申しましても、どうでも貴殿におかれましては、拙者を討ってとるお意《つもり》なので?」
 すると醍醐弦四郎という武士は、抜き身をソロリと鞘へ納めたが、
「競争をなさらないと仰せられるならば、何の拙者が恩怨もない貴殿へ、敵対などをいたしましょう。……しかしあらかじめ申し上げて置きます、あの巫女が占いをいたした以上は、貴殿にはほとんど間違いなく、その『何か』を手に入れようとして、努力をなさるようになりましょうとな。と、拙者とは必然的に、競争をすることになりましょう。もしもそのようになった際には、いつも貴殿の生命を巡って、拙者の刃のあるということを、覚悟をなされておいでなさるがよろしい。……とにかく今夜はお別れをいたす。ご免」と云うと元来た方へ、醍醐弦四郎は歩き出した。
 茅野雄は後を見送ったが首を傾《かし》げざるを得なかった。
(ああいうように云われて見れば、俺といえども巫女の占いを、何となく信じて見たくなった。醍醐弦四郎という武士が出て、俺の好奇心へ油を注いで、火を焚きつけたというものだ。……だが「何か」とは何だろう? 要するに今の場合では、何が何だか解らない――と云うことになっているな。……山岳へおいでなさりませ、何か得られるでござりましょうと、こうあの巫女は占ってくれたが、日本の国には山が多い。どこの山へ行けというのだろう? そこまで占ってくれなかったのだから、山へ行こうにも行きようがない)
 で、茅野雄は歩き出した。
 と、松倉屋の邸の中から、荒々しく怒鳴る老人の声が、門扉を通して聞こえてきた。





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