国枝史郎「生死卍巴」(04) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(04)

お菊と京助

「それではお前を験《ため》すつもりで、少し無理なことを云いつけようかしら」
 こう云いながら立ち上ったのは、松倉屋の女房のお菊であった。濃い眉毛に大きな眼に――その眼はいつも潤《うるお》っていて、男の心をそそるような、艶《なまめ》きと媚びとを持っていた。――高慢らしい高い鼻に、軽薄らしい薄手の唇に――しかしそういう唇は、男の好色心を強く誘《いざな》って、接吻《くちづけ》を願わせるものである。――お菊の顔は美しかった。と云ってどこにも一点として、精神的のところはなくて、徹頭徹尾肉感的であった。
 で、立ち上った立ち姿などにも、そういう肉感的のところがあった。発達した四肢、脂肪づいた体――乳房などは恐ろしく大きいのであろう、帯の上が円々《まるまる》と膨らんでいて、つい手を触れたくなりそうである。女の肉体は肩と頸足《えりあし》と、腰と脛《はぎ》との形によって、艶っぽくもなれば野暮ったくもなる。お菊の肩は低く垂れていて、腕が今にも脱けそうであった。頸足の白さと長さとは雌蕊《しずい》を思わせるものがある。胴から腰への蜒《うね》り具合と来ては、ねばっこくて[#「ねばっこくて」に傍点]なだらかでS字形をしていて、爬虫類などの蜒り具合を、ともすると想わせるものがあった、で、どのような真面目な男でも、その腰の形を見せつけられたならば、溜息を吐かざるを得なくなるだろう。
 はたしてキチンと膝を揃えて、敷き物も敷かずにかしこまって[#「かしこまって」に傍点]いた、手代の京助は悩ましそうに、こっそりと一つ溜息をしたが、周章《あわて》て視線を腰から外《そ》らせた。と、京助は一層に悩ましい、溜息を吐かなければならないことになった。と云うのは立ち上った女房のお菊が、隣の部屋へ行こうとして、サラサラと足を運んだ時に、緋縮緬を纏った滑石《なめいし》のような脛が、裾からこぼれて見えたからである。
「ホー」とそこで溜息をしたが、京助は思わず手を上げた。苦しいほどにも蠱惑《こわく》的の物を、うっかりと見た自分自身の眼を、急いで抑えようとしたのであった。が、中途で心が変わったのか、上げた手で忙《せわ》しくぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を撫でた。汗が流れていたからである。
 しかし京助は幸福なのであった。
(何てお美しい奥様なのだろう。私は何よりも美しいものが好きだ。お本店《みせ》へ務《つと》めて荷作りをしたり、物を持ってお顧客《とくい》様へお使いをしたり、番頭さんに睨まれたり、丁稚《でっち》に綽名を付けられたり、お三どんに意地悪くあたられることは、どうにも私の嗜好《このみ》に合わない。お美しい奥様のお傍に仕えて、何くれとなくお世話をして、「京助や、この衣裳はどう?」「よくお似合いでござります」「京助や、この櫛はどう?」「まことにお立派でござります」「京助や、今日の髪はどう?」「お綺麗なお髪《ぐし》にござります」「京助や、下駄をお出し」「はい、揃えましてござります」「京助や、供をしておいで」「お供いたすでござりましょう」――などと何くれとなくお世話をするのが、私には大変好もしい。お蔭で指は細くもなり、滑らかにもなり白くもなった。節立った指などというものはどうにも私の嗜好に合わない)
 その京助という若い手代は、どういう性質の男なのであろう?
 決して悪人でないばかりか、正直で忠実で働き好きで、そうして綺麗好きの若者であった。ただ小心だということと、腕力のないということと、男性よりも女性を好んで、男性に対すると無口になるが、女性に対するとお喋舌《しゃべ》りになって、活き活きとしてくるという、そういう欠点があるばかりであった。
 で、自然と松倉屋の主人の、勘右衛門に対しては不機嫌となるが、勘右衛門の女房のお菊に対すると、よきお小姓となるのであった。
 ところで最近に京助にとって、面白くないことが起こってきた。
 旗本の次男の杉次郎という武士が、女王様のように崇拝《すうはい》をしている、奥様の心をたぶらかして、奥様の心を引っ張り寄せて、愛人としての位置を掴んだかのように、京助に感じられたことであった。
(あの杉次郎という若侍は、どうやら奥様を甘言《かんげん》でまるめて、お金や物品《もの》を持ち出すらしい)
 これが京助には面白くなかった。
(それに奥様のお兄様だとかいう破落戸《ごろつき》のような風儀《ふう》の悪い、弁太とかいう男が出入りをしては、ずっと以前から、奥様の手から、いろいろの無心をしたようだが、この頃では一層に烈しくなったようだ)
 これも京助には面白くなかった。
(どのように奥様にお金があっても、ご自分には財産はないはずだ。旦那様からのお手当でお暮らしなすっておられるはずだ。その旦那様だがこの頃になって、奥様のふしだら[#「ふしだら」に傍点]に感付かれたものか、昔よりもお手当を減らしたらしい。……で、奥様はご不如意らしい)
 これも京助には心配であった。
 京助は部屋を見廻して見た。
 床の間に香炉が置いてあったが、いつもの香炉とは違うようであった。安物のように思われる。掛けてある掛け物も違うようであった。安物のように思われる。桃山時代の名手によって、描かれたとかいう六枚折りの屏風《びょうぶ》が、いつもは部屋に立てられてあったが、今は姿が見られなかった。異国製だとかいうビードロ細工の、旦那の自慢の燈籠があって、庭裏に向いた高い鴨居から、いつもキラビヤカに下っていたが、今はそれさえ見られなかった。
(そう云えば奥様の髪飾りなども、金目の物から一つ一つ、いつの間にか行衛が知れなくなった)
 部屋の中をジロジロ見廻していた京助の優しい心配らしい眼が、自分の膝の上へ落ちた時に、また京助は溜息を洩らした。
(一体奥様という人は、奥様らしくないお方だ。お妾《めかけ》さんのようなところがある。でもそれは奥様がお悪いのではなくて、旦那様のやり口がお悪いからだ。本宅の方へ奥様を入れて、内所向きのことを一切合財、奥様にお任せしようとはせずに、本宅の方は古くからいる先の奥様の時代からの、年老《としより》の頑固のしみったれ[#「しみったれ」に傍点]の、女中頭に切り盛りさせて、今度の奥様には手もつけさせない。こんな所へ寮を建てて、そこへ奥様を住まわせて、あてがい[#「あてがい」に傍点]扶持《ぶち》をくれて飼って置かれる。……だから奥様にしてからが、お心が面白くないはずだ。で、ふしだら[#「ふしだら」に傍点]をなされたり、無駄使いなどをなされるのだ。……それにしてもこのようにお道具類が、眼に見えてなくなってしまっては、旦那様だとて不思議に思われて、何とか苦情を仰言《おっしゃ》られるだろう。……でも奥様なら大丈夫かもしれない。あのお美しいお顔で笑って、あのお上手な口前で喋舌って、丸めておしまいなさるだろう)
 こう思うと京助は嬉しくなった。
(奥様はお偉い奥様はお偉い。それに旦那様は、疑がいながらも、奥様のお美しさには参っておられる)
 で、京助は安心をして、今度は部屋の中を長閑《のどか》そうに見た。
 と、その京助の眼の前の襖《ふすま》が、向こう側の方からあけられて、さっき隣りの部屋へ入って行ったお菊が、手に小さな包物《つつみ》を持って、忍ぶようにこっちの部屋へ入って来たが、四辺《あたり》に気でも配るように、オドツイた眼で部屋を見廻すと、京助の前にベタリと坐った。
「京助や」と云ったが嗄《しわ》がれた声であった。
「これをね、急いで持って行っておくれ。ここにね」と云うと書面を出した。
「行き先の番地が書いてあるよ。で、すぐさま行っておくれ。途中で誰が何と云おうと、よしんば誰が止めようと、決してこれ[#「これ」に傍点]を渡したり、引っ返して来てはいけないよ。書面をお取り、包物をお取り! 急いで急いで急いでおいで」
「はい奥様」と手代の京助は、書面と包物とを受け取りはしたが、お菊の顔付きに不安なものがあって、その言葉つきにあわただしさがあって、全体に何となく不吉なものを、感じさせるものがあったので、飛び出して行く気にならなかった。
 しかしお菊が怒ったような声で、こう続けさまに云ったので、京助は不安ながらも部屋を出た。
「云うことをお聞き! 行っておいで! お前は妾に云ったじゃアないか、どのような無理でも難題でも聞くと。……何でもありゃアしないのだよ。持って行って返辞を聞くだけだよ。そうそう何かを渡すかもしれない。大切に持って帰っておいで。……妾の云い付けを聞かなかろうものなら、お前は明日《あした》からお払い箱だよ」
 ――お前は明日からお払い箱だよ――この言葉ほど京助にとって、恐ろしい言葉はないのであった。
 で、あわただしく部屋を出た。
 が、すぐに邪魔がはいった。
 門口を出て庭へ出て、門から往来へ駆け出そうとして、束《たば》になって咲いている木芙蓉の花の叢《くさむら》の側《そば》まで走って来た時に、
「京助!」と呼ぶ声が近くで聞こえて、
「これ、どこへいく? 持っている物は何だ!」と、続いて呼ぶ声が聞こえたからである。
 で、京助は声の来た方を見た。
 盆のようにも大きな顔には、鈎《かぎ》のような鼻が盛り上っているし、牛のようにも太い頸筋には静脈が紐のように蜒《うね》っている、半白ではあったがたっぷり[#「たっぷり」に傍点]とある髪を、太々しく髷に取り上げている、年の格好は六十前後であったが、血色がよくて肥えていて、皮膚に弛みがないところから五十歳ぐらいにしか思われない。松倉屋の主人《あるじ》の勘右衛門であった。勘右衛門がそう云って呼び止めたのであった。
 と、見て取った手代の京助は、不機嫌らしい顔をしたが、不精々々に挨拶をした。
「へい、これは旦那様で。ちょっと出かけて参ります」
 で、手に持った包み物を、胸へ大事そうに抱くようにしたが、云いすてて門の方へ行こうとした。





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