国枝史郎「生死卍巴」(06) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(06)

旗本の次男杉次郎

 そう勘右衛門は呻くように云って、やにわに京助へむしゃぶり[#「むしゃぶり」に傍点]付くと、京助の持っている包物《つつみ》を、奪い取ろうと手をかけた。
 その勢いは凄じいほどで、京助の持っている包物の価値が、どんなに大きいかということを、証拠立てるに足るものがあった。
 しかし勘右衛門は老年ではあるし脂肪太りに太ってはいるし、その上に走って来たためか、その息使いは波のように荒くて胸の鼓動も高かった。今にも仆れそうな様子なのである。
 そうしてそのようにも苦しいのに、その苦しさを犠牲にして、どうでも包物を取り返そうとして、身もだえをするありさまと来ては、むしろ悲壮なものがあって、そうしていよいよ包物の価値の、偉大であるということを、証拠立てるに足るものがあった。
「よこせよこせ包物をよこせ! いやお願いだ返してくれ。怒りはしない、頼むのだ! どうぞどうぞ返してくれ!」
 ――で、無二無三に引ったくろうとする。
「私こそお願いいたします、どうぞ[#「どうぞ」は底本では「そうぞ」]旦那様お許しなすって! 包物はお渡しいたしません。奥様のお云い付けでございますもの。……持って参らなければなりません! はい、奥様のお云い付けの所へ!」
 京助は京助でこう喚《わめ》きながら、胸に抱いている包物を、どうともして取られまい取られまいとして、勘右衛門と捻じ合いひしめき合うのであった。
 京助としては当然と云えよう。
 こんなように京助には思ったのであるから。――
(こうも旦那が執念深く、奪い返そうとしているからには、小さいけれど包物の中には、素晴らしく大切な値打ちのある物が、入っているに相違ない。そうしてそれは奥様にとっては、一大事な物に相違ない。ひょっとかすると秘密の物かもしれない。もしも旦那に取り返されようものなら、奥様は絶望をして病気になって、京助や京助やとご機嫌よく、私を呼んでくださらないかもしれない。で、どのように頑張っても、旦那に包物は渡されない)
 ――で、喚きを上げながら、勘右衛門と捻じ合いひしめき合うのであった。
 いかにひっそり[#「ひっそり」に傍点]とした町とは云っても、大家の旦那とも思われる、非常に立派な老人と、大店の手代とも思われる、綺麗なお洒落の若い男とが、衣紋を崩して喚き声を上げて、往来《みち》の中央《まんなか》で人目も恥じないで、一つの包物を取ろう取られまいと、捻じ合いひしめき合っているのであるから、往来《ゆきき》の人達は足を止め、店から小僧や下女や子供や、娘やお神《かみ》さんや主人までが、飛び出して来て眺めやった。
 が、勘右衛門も京助も、そのようなことには感付かないかして、いつまでも捻じ合いひしめき合うのであった。
 その結果はどうなったであろうか?
 二人の争いを見守りながら、二人をグルリと取り巻いている、町の人達の間を分けて、痩せぎすで長身《せたか》くて色が白くて、月代《さかやき》が青くて冴え冴えとしていて、眼に云われぬ愛嬌があって、延びやかに高くて端麗な鼻梁に、一つの黒子《ほくろ》を特色的に付けて、黒絽の単衣《ひとえ》を着流しに着て、白献上の帯をしめて、細身の蝋鞘《ろうざや》の大小を、少しく自堕落に落とし目に差して、小紋の足袋《たび》に雪駄《せった》を突っかけた、歌舞伎役者とでも云いたいような、二十歳《はたち》前後の若い武士が、勘右衛門と京助とへ近寄って来たが、――そして真ん中へヌッと立ったが、
「これは松倉屋のご主人で、京助などという手代風情と、このような道の真ん中などで、何をなされておいでなさる。みっとものうござる、みっとものうござる……。京助々々何ということだ。ご主人様と争うなどと! ……え、そうか、ふうん、なるほど、ご内儀の云い付けでその包物を、どこかへお届けしようというのか。ではサッサと行くがよい。行け行け行け、かまわない。……ハッハッハッ、勘右衛門殿、はしたない[#「はしたない」に傍点]ではござりませぬか。いかさまお菊殿はあなたにとっては、自由《まま》になるご内儀でござりましょう。が、しかしご内儀のお菊殿から云えば、自分一人だけの勝手の用事も、自らあろうというもので。そこまで掣肘《せいちゅう》をなさるのは、少しく横暴でござりますよ」
 ――と、このように云うことによって、京助を勘右衛門から立ち去らせ、怒って焦燥して執念深く、尚も京助を追いかけようとする、勘右衛門を抑えて動かさなかった。――で、事件は解決された。
 が、この武士は何者なのであろうか?
 旗本の次男の杉次郎なのであった。

 根津仏町勘解由店《かげゆだな》の、一軒の家の階下の部屋で、話し合っている武士があった。
「アラの神は讃《たた》うべきかなさ」
 こう云ったのは老いたる武士であった。
「もっと讃うべきものが厶《ござる》」
 中年の武士が皮肉そうに云った。
「さようさようアラの神よりも、もっと讃うべきものが厶。が、そいつは残念にも、容易に手には入らないようで」
「そこでいよいよ欲しくなります」
「で、貴殿にはここへ出張られて、狙いを付けておられるので」
「さよう、貴所《きしょ》様と同じようにな」
「誰が最初に手に入れるやら。まず愚老でござろうな」
「はてね、少しあぶないもので。某《やつがれ》が勝つでござりましょうよ」
「愚老の方が眼が高い」
「が、某といたしましては、彼の故国を知っております」
「ほほう。亜剌比亜《アラビア》をご存知なので」
「いかにも某存じております」
「ふうむ」と老武士は呻き声を上げたが、すぐに、そいつ[#「そいつ」に傍点]を引っ込ませると、別のことを云い出した。
「愚老の方が財力がある」
 すぐに中年の武士が答えた。
「健康はいかがで健康はいかがで? 某の方が健康で厶」
「が、愚老には権勢がある」
「某にも権勢はござりますよ」
「どのような種類の権勢やら」
「命知らずの部下がおります」
「浪人であろう。食い詰め者であろう」
「もっともっとあくどい[#「あくどい」に傍点]奴らで」
「ほほうさようか、何者かな?」
「放火《つけび》、殺人《ひとごろし》、誘拐《かどわかし》、詐欺――と云ったような荒っぽいことを、日常茶飯事といたしている、極めて善良な正直者たちで」
「なるほど」と老武士は苦笑いをしたが、
「愚老の背後《うしろ》楯は少しく違う。大名衆や旗本衆で」
「大名衆や旗本衆?」
 中年の武士は迂散くさそうに、老年の武士の顔を見たが、
「失礼ながらご老人には、いかようなご身分でありますかな?」
 少し慇懃《いんぎん》にこのように訊ねた。
「よろしかったらご姓名なども、承りたいものでござりますな」
 すると老武士は顎を撫でるようにしたが、
「そう云われる貴殿の素性と姓名とが、愚老には聞きたく思われますよ」
「拙者は醍醐弦四郎と申して、浪人者でござります」
「愚老は雲州の隠居だよ」
「…………」
 醍醐弦四郎は仰天して、改めてつくづくと老武士を見たが、
「それでは松平碩寿翁《せきじゅおう》様で。……が、それにしてはこのような醜悪極まる勘解由店の、刑部《おさかべ》屋敷などへおいでなさるとは、心得ぬ儀にござりますな」
 ――で、碩寿翁の返辞を待った。
 それにしても勘解由店の刑部屋敷とは、どういう性質の屋敷なのであろうか?





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