国枝史郎「生死卍巴」(07) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(07)

勘解由と刑部?

「根津仏町に祈祷者住む、カアバ勘解由と云う。祈祷して曰く、『最も慈悲深き神よ、全智全能の神よ、死後まで祈祷すべし、尚神に願うべきことあり、正直に導けよ、邪道に導くなかれ』また曰く『告白せよ、神は唯一なり、信ぜよ、神は産れず、産ず、神と比較すべきもの何らあることなし』と。――吉利支丹《キリシタン》には非ず。有司放任す。信者数多《あまた》あり、いずれも謙遜」云々。
 古い文献に記してある。
 で、その信者達が住んでいたので、勘解由店と云ったのである。数十軒かたまっていたらしい。
 その一軒に刑部という男が、やはり信者として住んでいたが、カアバ勘解由と親交があり、最も信任されていた。が、刑部には商売があって、単なる信者ではなかったそうである。商売というのは古物商で、特に異国の珍器などを、蒐集していたということである。で、好奇《こうず》の富豪連や、大名などが手を廻して、取り引きをしたということである。
 以上は将軍家光時代、寛永年間のことなのであるが、それから数十年の時が経って、享保十五年になった時には、多少趣が変わっていた。
 すなわち代々勘解由という名をもって、男性ばかりが継いで来た家が、この代になって女性となり、信者が目立って減って来て、その代わりにただの市民達が、勘解由店へ続々移り住み、普通の貧しい部落となったことが、その一つの変化であり、勘解由家の後を継いだ千賀子という女が、勘解由家代々の主人のように、権力を持っていないばかりか、肝心の実家へもろくろく住まず、江戸の市中や地方などへ出て、人相だの家相だの身の上判断だのと、そういったような貧弱な業に、専心たずさわっているところから、家がほとんど没落してしまった。――と云うのも変化の一つといえよう。しかしある人の噂《うわさ》によれば、千賀子の代になってからであるが、二人の非常に有力の信者が、女性である千賀子を裏切って、勘解由家にとって重大な何かを、横領をしてしまったので、それで千賀子は落胆をして、そんな変なものになったのだとも云われ、いやいやそれだから千賀子という女は、奪われた何かを奪い返そうとして、放浪的生活をしているのだと、そんなようにも云われていた。
 ところで一方刑部《おさかべ》家の方には、どういう変化があったかというに、これは勘解由家とは反対に、昔よりも一層に盛んになって、江戸における特殊の古物商として、認められるようになっていた。
 と、こんなように説明して来れば、何か初代の勘解由という男が、偉大な宗祖のように見えるが、大したものではなかったらしい。カアバというこの文字から推察すれば、回教には因縁があったようである。と云うのはカアバというこの文字の意味は、亜剌比亜《アラビア》のメッカ市に存在する、回教の殿堂の名なのであるから。そういえば祈祷の文句にある、神は唯一なりというこの言葉なども、回教の教典《コーラン》の中にある。
 家光将軍の時代といえば、吉利支丹迫害の全盛時代で、吉利支丹信者は迫害したが、その他の宗教に対しては、政策として保護を加えた。で勘解由という人物であるが、長崎あたりにゴロツイていて、何かの拍子に回教の教理の、ほんの一端を知ったところから、江戸へ出て来て布教したのであろう。大して勢力もなかったので、有司もうっちゃって置いたのであろう。
 刑部という男にしてからが、同じ頃に長崎にゴロツイていて、いろいろの国の紅毛人と交わり、異国の安っぽい器具《うつわもの》などを、安い値でたくさん仕入れて来て、これも長崎で知り合いになった、勘解由という男と結托して、大袈裟に宣伝して売っただけなのであろう。
 さてまずそれはそれとして、人間という者は出世をすれば、自分へ箔を付けようとして、勿体《もったい》をつけるものであるが、刑部といえどもそうであった。第一にめったに人に逢わず、第二に諸家様から招かれても、容易なことには出て行かず、物を買ったり売ったりする時にも、お世辞らしいことは云わなかった。しかし一体に古物商には、変人奇人があるものであるから、刑部のそうした勿体ぶった様子は、あるいは加工的の勿体ぶりではなくて、本質的のものなのかもしれない。
 が、とりわけ勿体的であり、また変奇的であるものといえば、刑部の家の構造であろう。いやいや家の構造というより、古道具類を置き並べてある、――現代の言葉で云ったならば――蒐集室の構造であろう。
 しかし、それとても昭和の人間の、科学的の眼から見る時には、別に変奇なものではなかった。窓々に硝子《ガラス》が篏めてあって、採光が巧妙に出来ている。四方の壁には棚があったが、それが無数に仕切られていて、一つ一つの区画の面《おもて》に、同じく硝子が篏め込まれてあり、その中に置かれてある古道具類を、硝子越しに仔細に見ることが出来た。部屋の板敷きには幾個《いくつ》も幾個も、脚高の台が置かれてあったが、その台の上にも硝子を篏めたところの、無数の木箱が置かれてあって、中に入れてある古道具類を、硝子越しに見ることが出来た。
 構造と云ってもこれだけなのであった。
 しかし日本のこの時代においては、硝子というものが尊く珍らしく、容易に入手することが出来ない。その硝子を無数に使っているのである。変にも奇にも見えたことであろう。その上に壁の合間などに、波斯《ペルシャ》織りだの亜剌比亜《アラビア》織りだのの、高価らしい華麗な壁掛けなどが、現代の眼から見る時には、ペンキ画ぐらいしかの値打《かち》しかない――しかし享保の昔にあっては、谷《きわ》めて高雅に思われるところの、油絵の金縁の額などと一緒に、物々しくかけられてあるのであるから、見る人の眼を奪うには足りた。のみならず高い天井などからは、瓔珞《ようらく》を垂らした南京龕《ナンキンずし》などが、これも物々しく下げられてあるので、見る人の眼を奪うには足りた。で、日中であろうものなら、硝子窓から射して来る日光《ひかり》が、蒐集棚の硝子にあたり、蒐集木箱の硝子にあたり、五彩の虹のような光を放ち、それらの奥所《おくど》に置かれてあるところの、古い異国の神像や、耳環や木乃伊《ミイラ》や椰子の実や、土耳古《トルコ》製らしい偃月刀《えんげつとう》や、亜剌比亜人の巻くターバンの片《きれ》や、中身のなくなっている酒の瓶や、刺繍した靴や木彫りの面や、紅、青、紫の宝玉類を、異様に美々しく装飾し、もしそれが夜であろうものなら、南京龕に燈《とも》された火が、やはり硝子や異国の器具類を、これは神秘的に色彩るのであった。
 しかしこれらの部屋の構造も、そこに置かれてある異国の古道具も、今日の眼から見る時には、安物でなければ贋物なのであって、誠に価値のある物といえば、皆無と云ってもよいほどであった。いやもっと率直に云えば、享保年間のその時代においても、少し利口な人間であり、長崎などと往来し、紅毛人などと親しくし、多少商才のある人間であったから、こういう部屋の構造や、こういう異国の古道具などは、造ることも出来れば蒐《あつ》めることも出来、したがって高価に売りつけることも、苦心もせずに出来るのであった。だがもしそれが反対となって、異国の事情を知らない者などが、この部屋へ入って来ようものなら、何から何までが怪奇に見え、高雅に見えることであろう。
 とまれこういう部屋を持った、刑部屋敷という一軒の家《うち》が、その左隣りに没落をして、廃墟めいた姿をさらしている、勘解由千賀子の屋敷を持ち、周囲に貧民の家々を持って、かなり豪奢に立っているのであった。
 ところで当主の刑部という男は、そもそもどんな人物なのであろう。
 年は六十で痩せていて、狡猾尊大な風貌をしていて、道服めいた着物を着ていて、手に払子《ほっす》めいたたたき[#「たたき」に傍点]を持ち、絶えず口の中で何かを呟き、隙のない眼でジロジロ見廻す。――と云ったような人物であった。
 しかし刑部はめったのことには、蒐集室へは現われなかった。いつも奥の部屋にいるのであった。とはいえ見張ってはいるものと見えて、いかがわしい客などが入り込んで来ると、扉をあけてチョロチョロと入って来て、払子を揮って追い出したりした。
 宝石や貴金属の鑑定には、名人だという噂があり、贓品《ぞうひん》などをも秘密に買って、秘密に売るという噂もあった。で、大家の若旦那とか、ないしは富豪の妻妾などが、こっそり金の用途があって、まとまった金の欲しい時には、そうした宝石や貴金属を、ひそかにここへ持ち込んで来て、買い取って貰うということである。と、それとは反対に、掘り出し物の宝玉とか、貴金属などの欲しい者は、これはおおっぴらにここへ来て、蒐集室で探したり、直接刑部にぶつかったりして、手中に入れると噂されてもいた。
 松平碩寿翁と醍醐弦四郎とが、この日蒐集室へ集まって、互いに相手を探るような話を、さっきから曖昧に取りかわせていたのも、宝石かないしは貴金属か、掘り出し物をしようとして、苦心している結果とみなすことが出来る。





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