国枝史郎「生死卍巴」(08) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(08)

曖昧な会話

「それでは松平碩寿翁様で。……が、それにしてはこのような、醜悪極まる勘解由店《かげゆだな》の、刑部《おさかべ》屋敷などへおいでなさるとは、心得ぬ儀にござりますな」
 こう云って醍醐弦四郎は、碩寿翁の返辞をしばらく待った。
 何と碩寿翁は答えるであろうか?
 答えは極めて簡単であった。
「私はな、珍器や古器物が好きだ。世間周知のことではないか、何の勘解由店の刑部屋敷が、醜悪極まる処であろう。すくなくも私《わし》にはよい所だ。ここへ来て探すと珍らしい物が、ヒョッコリヒョッコリと手に入るからの。……それはそうとお手前におかれても、身分ある立派なお武家らしいが、お手前こそ何の用事があって、このような処へ参られたかの? と訊《たず》ねるのが本当ではあるが、ナーニ私は訊ねないよ。ちゃんと解っているからさ。掘り出し物がしたいからであろう。ここへ来るほどの人間は、一人残らず誰も彼もそうさ。アッハッハッ、図星だろうがな。ところでどういう掘り出し物を、お手前は望んでおられるやら? 実はな、私はそいつが聞きたい。が、押しては訊ねない、と云うのは推量がついているからよ。お手前の今の話によって、推量を私はつけたのだ。……亜剌比亜《アラビア》から渡って来た何かであろう。ここで率直に云うことにする。私もな、同じ物を探しているのだ」
 戸外《そと》は夜で暗かったが、部屋の中は燈火で明るかった。一つの卓を前にして、その向こう側へ醍醐弦四郎を置いて、眼光の鋭い巨大な鷲鼻の、老将軍のような碩寿翁が、胡麻塩の頤髯を悠々と撫《ぶ》し、威厳のある声音《こわね》で急所々々を、ピタピタ抑えてまくし立てた様子は、爽快と云ってよいほどであった。
 向かい合っている醍醐弦四郎も、一種剛強の人物らしく、太い眉に釣り上った眼、むっと結んだ厚手の唇、鉄のように張った胸板など、堂々とした風采ではあったが、碩寿翁にかかっては及ぶべくもないのか、たじろいだような格好に、卓から一二歩後ろへ離れた。
 しばらくの間は無言である。
 で、部屋の中は静かであって、南京龕《ナンキンずし》から射して来る光に、蒐集棚の硝子《ガラス》が光り、蒐集箱の硝子が光り、額の金縁が光って見えた。部屋の片隅に等身ほどもある、梵天《ぼんてん》めいた胴の立像があったが、その眼へ篏められてある二つの宝玉が、焔のような深紅《しんく》に輝いていた。紅玉などであろうかもしれない。
(相手が松平の大隠居とあっては、俺に勝ち目があるはずがない。のみならず俺の探している物を、碩寿翁も探しているという、困った敵が現われたものだ)
 碩寿翁と眼と眼とを見合わせながら、弦四郎は思わざるを得なかった。
(さてこれからどうしたものだ)
(何とかバツを合わせて置いて、器用にこの部屋を退散しよう。それにさ俺は何をおいても、伊十郎めに逢わなければならない)
 そこで弦四郎はお辞儀をした。
「これは恐縮に存じます。いや、お言葉にはございますが、何の私めがご前様と同じに、亜剌比亜《アラビア》から渡った何かなどを、探しなどいたしておりましょうぞ。先刻申し上げました話なども、ほんの出鱈目なのでござります。遠い異国の亜剌比亜のことなど、存じておるわけはござりませぬ。……さあこの屋敷へ参りましたのも、偶然からにござります。珍らしい器類を置き並べてあると、江戸で名高うございますので、一度は見ようと存じまして、本日門口《かどぐち》を通りましたので、立ち寄ったまでにございます。……まことに珍器、まことに異品、このように取り揃えてありましょうとは、思いも及ばないでおりましたので、驚かされましてござります。が、私めにとりましては、ご高名の松平碩寿翁様に、このように親しくお目にかかり、このように気安くお話をし、謦咳《けいがい》に接しましたそのことの方が、実は一層に珍らしくも、有難くも想われるのでござります。で、なにとぞこれをご縁に、今後はお引き立てにあずかりたく……ええ私めの素性と申せば……ハッハッハッとんでもない儀で、浪人者の私などに、何の素性などござりますものか。……よしまた素性がありましたところで、お耳に入れて徳もなく、聞かれるあなた様におかれましても、面白くもおかしくもござりますまい。そこで……」と云って来たが醍醐弦四郎は、自分が頓馬《とんま》に思われて来た。
(まるで辻褄が合わないじゃアないか。鼻の頭へ汗を掻いて、俺は一体何を云ってるのだ)
 で、また一つお辞儀をしたが、
「お別れいたすでござります。ご免」と、云うと部屋を飛び出した。
 こうして二人の変な会見は、あっけなく終りを告げたのであったが、しかし碩寿翁にも弦四郎にも、すぐ意外な事件が起こった。
 弦四郎の事件から書くことにしよう。
 刑部屋敷を出た弦四郎が、上野の山下まで来た時であったが、紗《しゃ》を巻いたような月光の中から、
「あの方もご出立でございます。あなたもご出立なさりませ!」
 こういう女の声が聞こえた。
「…………」
 で、弦四郎は声の来た方を見た。
 巫女《みこ》姿の女が弦四郎の横手を辷《すべ》るようにして歩いて行く。
「おお、あれはあの女だ」
 で、弦四郎は見送るようにした。
 月の光をヒラヒラと縫って、髪を垂らして、御幣《ごへい》を持って、脚に一本歯の足駄をはき、胸へ円鏡をかけている。衣裳といえば白衣《びゃくえ》であって、長い袖が風にひるがえり、巨大な蛾などが飛んでいるように見える。容貌なども美しいと見えて、月光にさらされた横顔の形は、鼻が高くて額が秀でて、頤が珠のように円味がかっていた。
「待て!」と、弦四郎は声をかけたが、すぐにスッと走り寄り、巫女の片袖へ手をかけた。
「千賀子殿でござろう、相違ござるまい!」
 だがその巫女は返辞もしないで、取られた片袖を柔かに外し、同じ辷るような歩き方で、根津の方角へ足を運んだ。
 一種いわれぬ威厳があって、遮ろうにも遮ることが出来ない。
 で、弦四郎は立ったままでいたが、千賀子の姿が見えなくなるや嘲るような声をもらした。
「碩寿翁には先手を打たれ、千賀子には謎語《めいご》を浴びせかけられてしまった。今夜は、俺にはめでたくない晩だ。二度あることは三度あるというが、もう一度、今夜中に嚇されるかもしれない」
(それにしてもどういう意味なのであろう? あの方はご出立なさいました、あなたもご出立なさいませとは?)
 しかし間もなく謎語の意味が、醍醐《だいご》弦四郎には解けて来た。
「伊十郎めに早く逢おう」
 こうして足を早ませて、両国の橋詰めまで行った時に、向こうから一人の若い武士が、息をせき切って走って来たが、
「おおこれは醍醐殿で」
「伊十郎氏か、何か起こったか?」
「宮川茅野雄《ちのお》が旅に立ちました」
(ははあこの事を云ったのだな、あの千賀子という女巫女は)
「おおさようか、で、何処《いずこ》へ?」
「まずお聞きなさりませ」
 年は二十八九であろうか、帷子《かたびら》に小袴をつけている。敏捷らしい顔立ちのうちに、一味の殺気の凝《こ》っているのは、善良でない証拠と云えよう。醍醐弦四郎の部下と見えて弦四郎に対しては慇懃《いんぎん》である。
「まずお聞きなさりませ」
 半田伊十郎は話し出した。
「ご貴殿のお指図《さしず》がありましたので、昨夜より私茅野雄めの邸を、警戒いたしましてござります。ところが今朝になりまして、にわかに旅支度をいたしまして、茅野雄には邸を立ちいでましたので、すぐに私事《こと》玄関へかかり、茅野雄の友人と偽わりまして、行く先を詳しく訊ねましたところ、僕《しもべ》らしい老人の申しますことには、飛騨の国は高山城下より、十五里あまり離れましたところの、丹生川平《にゅうがわだいら》という一つの郷《ごう》へ、参りました旨語りましたので、早速お耳に入れたく存じて、お邸へ参上いたしましたところ、ご外出にてご不在とのこと、そこで止むなくお約束の場所の、ここでお待ち受けいたしますうちに、お姿をお見かけいたしましたので、馳《は》せ参った次第にござります」
「そうか」と、それを聞くと醍醐弦四郎は、大きく一つ頷いて見せたが、
「すぐ俺も出立しよう」
「は、ご出立? でどちらへ?」
「云うまでもない、丹生川平へよ」
「茅野雄の後を追いましてな」
「素晴らしい何かを求めてだよ」
「で、我々一党の者は?」
「出立々々、同時に出立!」
「かしこまりましてございます」
 ――で、二人は引っ返したが、この頃松平碩寿翁においては、刑部屋敷の露路の口で、一人の若者と話していた。





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