国枝史郎「生死卍巴」(09) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(09)

兇悪の碩寿翁

(醍醐弦四郎と云ったあの男も、俺と同じ物を探しているらしい。油断のならない人物らしかったが、とんでもない競争者が出て来たものだ)
 碩寿翁はこんなことを思いながら、弦四郎の立ち去ったその後においても、蒐集部屋の中をあちらこちらと、珍奇の器具類を調べながら、しばらくの間はさまよっていた。
(今日はこれぐらいで帰るとしよう)
 で、碩寿翁は蒐集部屋を出たが、出たところに露路があって、それをウネウネと幾廻りかして、往来へ出なければならなかった。
 こうして碩寿翁は露路口まで来た。と、その時一人の男が、誰かに追われてでもいるかのように、息を切らして走って来たが、そこまで来ると足を止めて、キョロキョロ四辺《あたり》を見廻し出した。
「もし」と、碩寿翁を眼に入れたので、その若者は声をかけた。
「ちょっとお訊ねいたしますが、刑部屋敷と申します屋敷は、どこら辺りでござりましょうか?」
「刑部屋敷か、刑部屋敷はここだ。たった今私の出て来たところだ」
 こう云うと碩寿翁は若者を見た。
「おやそうでございましたか。やっと安心いたしました。で、はなはだ失礼ながら、あなた様がお屋敷のご主人で?」
「何か用でもあるというのか?」
「主人の用事でござります。はいはい私のご主人様の。ええ私のご主人様と申すは、松倉屋の奥様にござります。私ことは京助と申して、寵愛の手代にござります。で、奥様が仰せられました。この品物を持って行って、刑部屋敷のご主人に逢って、お手渡しをして参るがよい。一緒に書面もお渡ししな。そうしてご返辞をいただいて参れ。下さるものがあるだろう、それをもいただいて参るがよい。……これが品物にございます。これがお手紙にござります。……品物の中身は存じませぬが、どうやら高価の品物らしく、それが証拠には勘右衛門様が――はい松倉屋のご主人様なので、――品物を取り返そう取り返そうとして、いやはやいやはやとてもしつこく[#「しつこく」に傍点]、追っかけて来ましてございます。で、私は一散に逃げて、やっとここまで参りました。ほッ、この汗! この汗はどうだ! 汗をかきましてござります。ほッ、この動悸! この動悸はどうだ! ひどい動悸が打っております。……」
 碩寿翁を屋敷の主人と見あやまり、京助はあたふた[#「あたふた」に傍点]こう云いながら、包み物と書面とを前へ出した。
 恐ろしい主人の勘右衛門に、執念深く追いかけられ、弁太や杉次郎に助けられ、ようやく逃げて根津まで来て、あっちこっちをほっつき[#「ほっつき」に傍点]廻り、ようやく目的の刑部屋敷の、露路の口まで来たのであった。その時風采堂々とした、松平碩寿翁に逢ったのである。顛倒している眼から見れば、刑部屋敷の主人公に、碩寿翁の見えたのは当然と云えよう。
 で、京助は恭しく、包み物と書面とを支え持っていた。
(松倉屋の女房の高価な品物? 勘右衛門が取り返そうと追って来た品物? 刑部屋敷の主人へ渡して、返辞と何かを下さるだろうから、それをいただいて参れという品物。……松倉屋は昔は抜け荷買いだ、異国の珍器なども持っていよう。刑部屋敷の主人といえば、そういう品物を売買する奴だ……松倉屋の女房は贅沢三昧で、むやみと金を使うという。……うむ、解った! それに違いない!)
 碩寿翁には咄嗟に真相が解った。
 俄然碩寿翁の眼の光が、貴人などにはあるまじいほどに、毒々しく惨酷に輝いたが、
「さようか、よろしい、受け取りましょう。返辞もあげよう、物もあげよう。……さあさあこっちへ参るがよい。どれ」と、手を延ばして二品を取ったが、とたんに片手をグッと突き出した。
 呻きの声の聞こえたのは、急所を突かれた手代の京助が、倒れながら呻いたからであろう。
 左右は貧民の家々であって、露路を挟んで立ち並んでいる。月の光が遮られて、露路の中はほとんど闇であった。そういう露路を背後《うしろ》にして、露路口に立っている碩寿翁の姿は、その長い髯に、頑丈な肩に、秀れた上身長《うわぜい》に、老将軍らしい顔に、青白い月光を真っ向に浴びて、茶人とか好奇家《こうずか》とか大名の隠居とか、そういうおおらか[#「おおらか」に傍点]の人物とは見えずに、老吸血鬼か殺人狂のように見えた。その足もとに転がっているのは、犠牲にされた京助であって、両手を握って左右へ延ばし、食いしばった口から泡を吹き半眼で空を睨んでいる。
 と、碩寿翁は腰を曲げたが、手を延ばすと京助の襟上をつかみ、露路へズルズルと引っ張り込んだ。
 一つの露路は二つの露路を産み、二つの露路は四つの露路を産み、この一画は細い露路によって、蜘蛛手《くもで》のように織られていたが、それの一つへ投げ込まれたが最後、死人であろうと、怪我人であろうと、犬や猫のように扱われて、死人は下手人も探されず、そのままどこかへ片寄せられ、怪我人は介抱もされないのであった。
 この一画は貧民窟ではあったが、また罪悪の巣でもあり、悪漢《わる》や無頼漢《ごろつき》の根城なのでもあった。
 淫祠邪教の存在地なるものは、表面人助けが行なわれるが、裡面においては惨忍極まる、悪徳が横行するものである。
 とりわけ細い露路の一つへ、死んでしまったのか、気絶をしているのか、されるままになっている京助の体を、ズルズルと引っ張って来た松平碩寿翁は、一軒の家の門口《かどぐち》の前へ、その京助の体を捨て、忍びやかに露路を出ようとした。
 と、その家の窓の辺りから、急に華やかな燈火《ともしび》が射し、高貴な若々しい男の声が、屈託もなさそうに聞こえてきた。
「問題は非常に簡単なのだよ。小慾にあり知足《ちそく》にあるのさ。なるほど、今は生活《くらし》にくい浮世だ。戦い取ろう、搾《しぼ》り取ろうと、誰も彼も逆上してあせっている。だから私は云うのだよ、慾を少なくして、足るを知れと。つまり浮世と逆行するのだ。その逆行が徹底した時に、桃源郷が現じ出してくる。……誰も彼も桃源郷を求めていながら、誰も彼もが桃源郷を断っている」
 するとその声に答えるようにして、あどけない娘の声がした。
「小父《おじ》様ほんとうでございますわね。……でも小父様はどういうお方ですの?」
「私《わし》かね」と男の笑声が云った。
「旅人なのだよ、この人の世の。……お伽噺の語り手なのだよ。伝道者と云ってもよいかも知れない」
「妾《わたし》ちっとも恐くないわ。知らないお方ではございますけど。……フラリと先刻《さっき》いらしった時から、ちっとも恐くはございませんでしたの」
「それはね、お前さんがよい娘《こ》だからよ。……悪人なら私を怖がるはずだ」
「でも小父様はお立派なのね。お顔もお姿もお召し物も。……そうして何て神々《こうごう》しいのでしょう。妾、ひざまずいて拝みたいのよ」
「お前さんの心が立派だからよ。……立派な心は立派な心を好くよ。私こそお前さんにひざまずくべきだよ」
「でも妾貧しいのでございますの。誰も彼も私を馬鹿にしますの」
「一人だけお前さんを認めているものがあるよ」
「まあ小父様、あなたのことですの」
「いやいや私がお仕えしている方だよ」
「どなたでございますの? ねえ小父様?」
「唯一なる神」
「唯一なる神?」
「お聞きお妙《たえ》さん、聞こえるだろうね」
「…………」
「小慾知足とは反対に、飽くことを知らない強慾者が、みすみす没落の穴の方へ、歩いて行く足音が聞こえましょう」
「小父様妾には聞こえませぬが」
「窓をお開け!」と男の声がした。
「姿を見ることが出来ましょう。その気の毒な強慾者の姿が」
 露路の闇に佇んで、聞きすましていた碩寿翁は、一刹那体をひるがえすと、その家の板へへばり[#「へばり」に傍点]ついた。
 と、すぐに窓があき、娘の顔が現われたが、家内《いえうち》から射し出る燈火《ともしび》の光を、背景としているがために、顔立ちなどはわからなかった。清らかな白い輪廓ばかりが、ぼんやり見えるばかりであった。
 娘は露路の左右を見たが、
「小父様、何にも見えませぬ」
「さようか」と、家内で男の声が云った。
「では見ない方がよいだろう。……そうだ、なるたけ穢らわしいものは」
「ああ小父様、黒い物が見えます。おおおお死骸でございます。若い方の死骸でございます。露路の真ん中に倒れております」
「助けておいで」と、男の声がした。
「可哀そうな不幸な贄《にえ》なのだよ」
 つづいて「はい」という声が聞こえて、窓から娘の顔が消えた。
 と、戸をあける声がした。
 松平碩寿翁は見付けられなければなるまい。
 いやいや碩寿翁はこの時には、既に露地から走り出していた。すなわち窓から娘の顔が、引っ込むと同時に身を躍らせて、露路から外へ飛び出したのであった。





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