国枝史郎「生死卍巴」(13) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(13)

白河戸郷

 その日から十日は経ったようであった。
 丹生川平から五里ほど離れた、白河戸郷《しらかわどごう》から一群の人数が、曠野の方へ歩いて来た。
 一人の若い美しい乙女を、十二人の処女らしい娘達が、守護するように真ん中に包んで、長閑《のどか》に話したり歌ったりして、ゆるゆると漫歩して来るのであった。飛騨の山の中でも白河戸郷といえば、日あたりの良いいい土地として、同国の人達に知られていた。
 季節は六月ではあったけれども、山深い国の習いとして、春の花から夏の花から、一時に咲いて妍《けん》を競っていた。木芙蓉の花が咲いているかと思うと、九輪草の花が咲いていた。薔薇と藤とが咲いているかと思うと、水葵の花が咲いていた。青草の間には名さえ知られていない、黄色い花や桃色の花が、青い絨毯に小粒の宝石を、蒔き散らしたように咲いていた。
 白河戸郷は四方グルリと、低い丘によって囲まれていて、その丘を上ると曠野であって、曠野の外れは高山によって、これまた四方を囲まれていた。で、高山の大城壁が、白河戸郷をまず守り、次に荒々しい広い曠野が、白河戸郷を抱き包み、さらに低い丘が内壁かのように、白河戸郷を守っているのであった。
 約言すると白河戸郷は、三重の大自然の城壁によって、守護されている盆地形の、城廓都市ということが出来た。
 が、もちろん、城廓都市という、この大袈裟な形容詞の、中《あた》っていないことは確かであって、むしろ三重の大自然によって、外界と遮断されている、別天地と云った方が中っていて、盆地の中には多数の人家や、小ぢんまりとした牧場や、花園や畑や田や売店や、居酒屋さえも出来ていた。
 で、朝夕炊煙が上って、青々と空へ消えもすれば、往来で女達が喋舌《しゃべ》ってもいれば、居酒屋で男達が酔っぱらってもいれば、花園で子供達が飛び廻ってもいれば、田畑で農夫達が耕してもいた。
 が、ここに不思議なことには、盆地の中央に一宇[#「一宇」は底本では「一字」]の伽藍が、森然として立っていることであって、その形は小さかったが――と云って二十間四方はあろうか、様式がこの上もなく異様であった。とは云え伽藍の本当の姿は、その伽藍をこんもり[#「こんもり」に傍点]と取り巻いている、巨大な杉や桧に蔽われて、見て取ることは出来なかった。が、真鍮色の天蓋形の、伽藍の屋根が朝日や夕日に、眼眩《めくる》めくばかりに輝いて、正視することさえ出来ないように、鋭い光を反射して、そのため鳥の群がそこへばかりは、翼を休めて停まろうとさえしない。――と、云うほどにも神々しい屋根が、人々の眼に見てはとれた。
 曠野の方へ漫歩して行く、女の群はその伽藍から、どうやら揃って出て来たらしい。
 その群は今や丘の斜面を、上へすっかり上り切って、丘の頂きへ姿を現わした。
 十二人の処女らしい娘達に、守護されながら歩いている乙女の、何という美しく健康《すこやか》で、快活で無邪気であることか! 身長《せい》も高ければ肥えてもいる。四肢の均整がよく取れていて、胸などもたっぷりと張っている。切れ長でしかも大きな眼、肉厚で高い真直ぐの鼻、笑うごとに石英でも並べたような、白くて艶のある前歯が見え、その歯を蔽うている唇は、臙脂《べに》を塗ってはいなかったが、臙脂《べに》を塗っているよりも美しかった。練り絹の裾だけに、堂や塔や伽藍や、武器だの鳥獣だのの刺繍をしている、白の被衣《かつぎ》めいた長い布《きれ》を、頭からなだらかに冠っていた。異国織りらしい帯の前半《まえはん》へ、異国製らしい形をした、金銀や青貝をちりばめた、懐剣を一本差しているのが、この乙女を気高いものにしていた。
 乙女を守護している娘達も、揃って美しく健康で、上品で無邪気ではあったけれども、被衣などは冠っていなかった。侍女達であることは云うまでもあるまい。
 その一行が斜面を上って、丘の頂きへ立った時に、下から一斉に声を揃えて、呼びかける声が聞こえてきた。
 ――お嬢様ご用心なさりましょう。
 ――あまり遠くへおいでなさいますな。
 ――丹生川平の連中が、襲って参るかもしれませぬ。
 距離がへだたっているがために、地言《じこと》はハッキリと解らなかったが、こういう意味のことを言っているようであった。
 で、乙女も侍女達も、盆地の方を振り返って見た。往来や田畑や家の門口《かどぐち》などに、人々が集まって丘の方を見ていた。
 その人達が注意したのであった。
「大丈夫だから先へ行こうよ」
 この郷の長であると共に、この郷の神殿の祭司である、白河戸将監《しらかわどしょうげん》の一人娘の、小枝《さえだ》というのがこの乙女であったが、そう云うと侍女達を従えて、曠野の方へ漫歩をつづけた。
 彼女達は彼女達が信じている、白河戸郷の守護神とも云うべき、神殿のご本尊の「唯一なる神」へ、野の花を捧げようと考えて、野の花を摘みに来たのであった。
 小川が一筋流れていて、燕子花《かきつばた》の花が咲いていた。と、小枝は手を延ばしたが、長目に燕子花の花を折った。と、小枝は唄い出した。
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※[#歌記号、1-3-28]メッカの礼拝堂《ハラーム》に
信者らの祈る時、
帳《とばり》の奥におわす
御像《みぞう》の脚に捧げまつらん
日の本の燕子花を。
[#ここで字下げ終わり]
「みんなも燕子花を取るがよいよ」
 ――すると侍女達も手を延ばして、各自《めいめい》燕子花を折った。
 一行は楽しそうに歩いて行く。
 灌木の裾に白百合の花が、微風に花冠を揺すりながら、幾千本となく咲いていた。
 と、小枝は手を延ばして、その一本を折り取ったが、
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※[#歌記号、1-3-28]白楊《はこやなぎ》の林に豹が隠れ、
信者らが含嗽《うがい》して
アラの御神《みかみ》を讃え奉《まつ》る時、
回教弘通者《ぐつうしゃ》のオメル様の墳塋《はか》へ、
ささげまつらん白百合の花を。
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 こう歌って侍女を返り見た。
「さあお前達も百合の花をお取り」
 一行は先へ進んで行く。
 一所に崖が出来ていて、小さな滝が落ちていた。岩燕が滝壺を巡って啼き、黄色い苔の花が咲いていた。その苔の花にまじりながら、常夏《とこなつ》の花が咲き乱れていた。
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※[#歌記号、1-3-28]果物《くだもの》の木に匂いあり
御神水《ミム》と黒石《アラオ》とに、
虹の光のまとう時
馬合点《マホメット》様の死せざる魂に
いざや捧げまつろうよ
常夏の花の束を。
[#ここで字下げ終わり]
 小枝は常夏の花を見ると、こう朗らかに歌いながら、手を延ばして一本の花を折った。と、延ばした右の手の袖が、肘の辺りまで捲くれ上って、白い脂肪《あぶら》づいた丸々とした腕が、ムキ出しに日の光にさらされた。艶々とその腕が濡れて見えたのは、滝の飛沫《しぶき》がかかったからであろう。侍女の一人が小枝の背後《うしろ》で、ひざまずくように小腰をかがめて、地に敷こうとしている被衣の裾を、恭しく両手でかかげている。
 と、小枝は歩き出した。
 蜂が花から花へ飛んで、うたいながら蜜を漁っている。小鳥が八方から翔《か》けて来て、この人達は害をしないよ――そう思ってでもいるかのように、一行の頭上や周囲で啼いた。陽炎《かげろう》がユラユラと上っている。花の匂いと草の匂いとが、蒸せるように匂っている。空は白味を含んではいたが、しかし一片《ひら》の雲も浮かべず、澄んで遥かにかかっていて、その中に太陽が燃えながら、地上の一行を眺めていた。
 手に手に野花を握り持って、楽しそうに歌いながら歩いて行く群の、女達十三人の姿というものは、画中の人物が歩くようであった。時々草叢《くさむら》から兎が飛び出したり、山猫が唸り声をあげながら、一行の行く手を横切って、ノッソリと林へ入ったりした。遠くに森林が連らなっていたが、その裾を一列の隊をなして、鹿の走って行く優しい姿が、一行の眼に見えもした。
 この一行が進めば進むほど、その一行を惑わかすかのように、野には諸々の草や木の花が、数を尽くして咲いていた。
 で、一行は我を忘れて、先へ先へと歩いて行く。
 いつか白河戸郷を巡っている、連々たる丘からは遠く放れて、曠野の中央の辺りまで行った。
 惑わしでなくて何であろう! 一行の進んで行く方角に、白河戸郷を敵と目して、日頃から争いをつづけている、丹生川平があるのであるから。
 が、勿論彼女達といえども、五里のへだたりを持っている、丹生川平の領域へまでは漫歩をつづけて行きもしまいが、もしも丹生川平の住民が、この方面へ様子を見に来て、彼女達の姿を認めたならば、見遁して置くようなことはあるまい。
 しかし花野の美しさは、彼女達にそういう危険をさえ、感じさせないように思われた。
 花を摘んでは手に抱え、歌いながら先へ進んで行く。




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