国枝史郎「生死卍巴」(14) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(14)

丹生川平の人々

 はたしてこの頃一群の人数が、丹生川平《にゅうがわだいら》の方角から、こなたへ向かって歩いて来た。
 その中の一人は意外にも、醍醐《だいご》弦四郎その人であり、その他は恐らく丹生川平の、住民達であろう、筒袖を着て山袴を穿いて、腰に一本ずつ脇差しを差した、精悍らしい若者達で、その数総勢で十人であった。
 花野を踏み踏み歩いて来る。しかしおおっぴらに歩けないのでもあろう、木立があれば木立に隠れ、灌木があれば灌木に隠れ、林があれば林に隠れ、森があれば森に隠れて、忍ぶがように歩いて来る。
「醍醐様そろそろ近づきました。なるだけご用心なさいますよう」
 一人の若者がこう云いながら、弦四郎の顔を覗くように見た。
「たかが山奥の住民どもだ、武芸の心得などロクロクあるまい。襲って参らばよい幸いに、この弦四郎みなごろし[#「みなごろし」に傍点]にしてやるよ」
 弦四郎は太々しくこんなことを云ったが、
「美しい娘があるということだの?」
「はいはい小枝《さえだ》と申しまして、美しい娘がございます」
「丹生川平の浪江殿と、どっちの方が美しいかな?」
「それを見る人の心々で、どっちがどうとも申されませぬ。二人ながら美しゅうございます」
「浪江殿に負けずに美しいというのか。ふうむ、それは素晴らしいの」と弦四郎は厭らしい笑い方をしたが、
「全く浪江殿はお美しい。ちょっと都にもなさそうだ」
「はいお美しゅうございます」
「性質はちと[#「ちと」に傍点]優しすぎるようだが」
「お父上がああいうお方ゆえ、いろいろご苦労がありまして、陰気になられるのでございましょう」
「いかにも処女らしくて俺《わし》は好きだ」
「山道に迷ったと仰せられて、あなたさまが数人のご家来を連れられ、丹生川平へおいでになって以来、どうやらあなた様におかれては、浪江様に大変ご執心のようで、もっぱら評判でございます」
「そうかな」と弦四郎は苦笑いをしたが、
「丹生川平へ入り込んでから、十日という日が経ってしまった。そのくせ俺《わし》はある重大な、用事を持っている身分で、かつ一人の人間を、探し廻っているのであるが、どうもお美しい浪江殿という、あのお娘ごを見て以来は、外《ほか》へ行くのが厭になってしまった」
「我々住民にとりましては、有難いことにございますよ」
 追従めかしくこう云ったのは、額に瘤のある若者であった。
「洵《まこと》に浪江殿はいい娘ごではあるが、父上の宮川覚明殿は、俺には変に人間放れのした、奇怪な人物に見えてならぬ」
 弦四郎はこう云うと苦々しく笑った。
「そのくせあの仁に依頼されると、危険だと云われている白河戸郷へ、こうして様子を見に出かけて来る。我ながら変な気持がするよ」
「覚明様は一面霊人、他面魔物にございますよ」
 こう怖そうに云ったのは、片眼潰れている若者であった。
「奇怪といえばもう一つある」
 弦四郎は云い云い首を傾《かし》げた。
「あの神殿も奇怪なものだ」
「…………」
 誰もが返辞をしなかった。
 誰も彼も弦四郎が言葉に出した、「神殿」というその言葉に、触れることを憚っているようであった。
「が、俺は覚明殿と約束をしたのさ。俺の力で白河戸郷を、没落させることが出来たなら、浪江殿をくれるか神殿の中へ入れるか、どっちかを果すという約束をな」
 しかし弦四郎がこう云っても、若者達は黙っていた。
 信用しないぞという様子なのである。
 一行は先へ進んで行く。
 同じように野からは陽炎が立ち、兎が草の間から飛び出したりした。
 一行の歩いて行く影法師が、野の花で絨毯を織っている、曠野の上へ黒々と落ちて、一行が進むに従って、影法師も先へ進んで行き、影法師が進んで行くにつれて、野の花がある時は暗くなり、またある時は明るくなった。すなわち影法師の落ちているところの、野の花は影法師に蔽われて、色と艶とを失って、暗い姿となるのであるが、その反対に影法師が、先へ進んで行ってしまうと、暗い姿であった野の花が、鮮かに色と艶を甦生《よみがえ》らすからであった。
 こうして一行は進んで行ったが、一つの小さな林まで来た。
 と、その林の向こう側から、女の歌声が聞こえてきた。

 で、弦四郎の一行は、顔を互いに見合わせたが、眼を返すと木立の隙《ひま》から、歌声の来る方をすかして見た。
 被衣《かつぎ》を冠った一人の乙女を、十数人の娘達が、守護するように囲繞して、各自《めいめい》野花を手にかざして、歌いながらこっちへ歩いて来ていた。
「素晴らしい代物がやって来たぞ」
 額に瘤のある若者が、こう頓狂に声を上げた。
「醍醐殿々々々ご覧なされ、被衣を冠っているあの女が、白河戸郷の長をしている、将監の娘の小枝でございますよ」
「そうか」と弦四郎は小枝を見詰めた。
「遠眼でしかとは解らないが、いかさま美しい娘らしい。……が、何のために女ばかり揃って、こんな所へ来たのだろう」
 しかし弦四郎にはそんなことは、どうであろうと関係《かかわり》はなかった。
 弦四郎はすぐに計画を案じた。
(小枝を奪い取って人質としよう。白河戸郷を苦しめるのに、上越《うえこ》す良策はない)
 で、弦四郎は若者達へ云った。
「方々《かたがた》拙者に存じよりがあります。ここに待ち受けて小枝という娘を、奪い取ることにいたしましょう。さあさあ木陰へおかくれなされ」

 で、弦四郎をはじめとして、丹生川平の若者達は、木陰に体をひそませて、小枝達の一行の近寄って来るのを、一団にかたまって待ち受けた。
 そういう危険が待っているという、そういうことを小枝達が、どうして感付くことが出来よう。野花を摘みながら讃歌をうたい、歌いながら次第に林の方へ、浮き浮きとした様子で近寄って来た。
 間もなく小枝達の一行は、林の前まで来ることであろう。
 と、弦四郎達の一団が、踊り出て彼女達を襲うであろう。
 その結果は知れている。
 小枝は奪われるに相違ない。
 しかるにこの頃一人の武士が、汚れ垢じみた旅姿で、曠野をこっちへ辿って来た。
 他ならぬ宮川茅野雄《ちのお》であった。
 輿《こし》を担《かつ》いで来た二十人の、異様な樵夫《そま》のような人物達に、意外なことから襲われて、数人茅野雄は切りは切ったが、不覚にも崖を踏み外して、谷底深く落ち込んだのは、この日から十日前の深夜のことであった。
 脾腹《ひばら》を岩などで打ったからであろう、茅野雄は谷底で意識を失った。
 と、何者か呼ぶ者があった。
「お侍様! お侍様!」
 で、茅野雄は蘇生した。
 年寄りの夫婦の樵夫がいて、茅野雄を親切に介抱していた。
 通りかかった良人《おっと》の方の樵夫が、気絶している茅野雄の姿を、谷底で発見したところから、自分の小屋へ連れて来て、妻と介抱して蘇生させたのであった。
 爾来茅野雄は小屋の中で、老樵夫夫婦の厄介になり、傷の養生に精を出した。大した負傷でもなかったので、まもなく恢復することが出来た。
 で、樵夫夫婦に礼を述べ、丹生川平への道筋を、夫婦の者に教えられ、今朝方出発《た》って来たのであった。
 茅野雄は曠野の美しい景色に、一種の恍惚を感じながら、長閑《のどか》に先へ歩いて行った。
 と、その時行く手にあたって、小高い丘が立っていたが、その丘の背後《うしろ》と思われる辺りから、男達の怒声が突如として起こり、つづいて女達の悲鳴が聞こえた。
 で、茅野雄は眼をひそめたが、声の来た方を眺めやった。
 間断なく男達の怒声が聞こえ、女達の悲鳴がそれにつづいた。大勢の男女が争っているらしい。
(若い女子《おなご》を悪者が、誘拐《かどわか》そうとしているのであろう)
 こういう場合の常識として、ふと茅野雄はこう思った。
(ともかくも行ってみることにしよう)
 で、茅野雄は小走った。
 と、その時丘を巡って、一人の女を小脇に抱えた、逞しい武士が現われたが、茅野雄の方へ走って来た。




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