国枝史郎「生死卍巴」(17) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(17)

騎馬の一団

 危急を知らせる合図の音が――調子を持った木を叩く音が、四里の森林を丹生川平の方へ、矢のように早く伝わって行く。
 と、森林の壁が切れて、向こうに丘が聳えていたが、忽ち丘の頂きの上に、数人の男が現われた。その丘の奥が丹生川平であって、頂きへ現われた男達は、丹生川平の住民達であった。
 眼の前に連らなっている森林の中から、伝わって来た合図の音を聞くと、男達は何やら叫び声を上げたが、丘の頂きから姿を消した。
 と、思う間もないうちに、馬の蹄《ひづめ》の音がして、忽然と数十人の騎馬の一団が、丘の頂きへ現われた。
 弓を持っている者、棍棒《こんぼう》を持っている者、竹槍を小脇に抱えている者、騎馬の一団は一人残らず、各自《めいめい》得物を持っていたが、その扮装《いでたち》には異《か》わりがなく、筒袖に伊賀袴を穿いていて、腰に小刀を帯びていた。精悍らしい若者達で、血色もよければ四肢も逞しく、いかにも飛騨という山岳国の、森林の中へ特殊の郷を設けて、生活をしている人間らしかった。
 飛騨と信州とは接近しているので、自然も動物もよく似ていたが、彼らの乗っている馬と来ては、信州駒――わけても木曽駒に似ていて、背丈こそ低く、形こそ小さく、一見貧弱ではあったけれども、脚の強さ息の長さ、険しい山道を上り下りする場合に、決して転《まろ》びもせず膝も突かず、また縦横に入り乱れている木々の間を巧みに縫って、駛《はし》るに得意な点などにかけては、南部駒よりも、三春駒よりも、遥かに優れているのであった。
 そういう駒に打ち乗って、丹生川平の男達が、今や丘から走《は》せ下り、森林の中を突破して、宮川茅野雄と醍醐弦四郎とが、切り合っている曠野の方へ、無二無三に押し出そうとしている。
 いや押し出そうとしているばかりではなくて、事実無二無三に押し出して来て、瞬間に丘を走り下りて、森林の中へ走り込んだ。
 で、その丘のなだらかな斜面は、蹄で蹴られて雲のように、ムラムラと上った砂煙りのために、一時全く蔽われたように見え、啼いていた小鳥の歌声も途絶え、飛び散って咲いていた草の花の、織り物のように鮮麗だった色も、砂煙りの奥へ消え込んでしまった。
 が、その時分には騎馬の一団は、森林の中を走っていた。
 いかに彼らが馬術に達し、熟練を極めていることか! 灌木があれば躍り越し、喬木があれば巡って進み、沼があれば岸を輪なり[#「なり」に傍点]に馳せ、網の目のように強靱の蔓が数間に渡って張られてあれば、得物で切り払って突破した。当然の所業《しわざ》ではあったけれども、何とその所作が敏捷で、かつ自在であることか!
 と、一団が雁行《がんこう》をなした。馬の首が前方を走っているところの、他の馬の尻に触れそうなほどにも、接近をして走っておりながらも、前の馬の走る邪魔をしない。
 と、一団が鶴翼《かくよく》をなした。宏大な森林を横へ拡がり、横隊をなして走らせて行く。無数の障碍物《しょうがいぶつ》を持ちながら、その障碍物を巧みに避《よ》けて、互いに呼び合うことによって、一定の間隔をいつも保ち、疾風のように走って行く。
 一匹の馬が躓《つまず》いて、乗り手が逆様《さかさま》に落ちようとした。しかしその時にはもう一人の乗り手が、いち早く横手へ走って来ていて、落ちかかった乗り手を手を延ばして支えた。
 やがて一団は集合したままで走った。
 彼らの走って行った後に、何が残されているだろう? 踏みにじられた無数の草花と、蹄で掘られた無数の小穴と、蹴殺された幾匹かの野兎と、折られた木の枝と散らされた葉と、崩された沼の岸とであった。
 一所から彼らの一団の、姿が見えなくなった時には、遥かの前方の一所に、彼らの一団が見えていた。
 得物の触れ合う金属性の音と、絶えず叫んでいる警戒の声と、馬の嘶《いなな》きと蹄の音とが、一つに塊《かた》まった雑音が、一所で起こって消えた時には、既に遥かの前方で、同じ雑音が起こっていた。
 不意に彼らの一団の上に、華やかな光が輝いた。空を蔽うていた森林が切れて、そこから日の光が落ちて来たからである。と、彼らの一団の中で、雪のように白く輝く物があったが、それは三頭の白馬であった。
 しかし瞬間に彼《か》の一団は、輝かしい日の光の圏内から消えて、暗い寂しい物恐ろしい、森林の奥へ消え込んだ。
 こうして無二無三に走って行く。
 この勢いで走ったならば、四里の道程《みちのり》などは一時間《はんとき》足らずで、走り抜けてしまうことであろう。
 そうして曠野へ現われたならば、醍醐弦四郎に力を添えて、宮川茅野雄を打って取って、小枝を奪うことであろう。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 しかしこういう呼び声を上げて、白河戸郷の長の娘の、小枝の侍女達の命限りに、曠野を転んだり起きたりして、道程一里の白河戸郷の方へ、小枝が怨敵丹生川平の者に、誘拐《かどわか》されたということを、告げるために走って行っていることに、一方留意をしなければならない。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 侍女達は懸命に走って行く。
 一人の侍女がまた転んだ。と、衣裳の裾が乱れて、白い脛《はぎ》が現われた。恥かしいとも思わずに、あらわな脛で立ち上ると、あらわな脛でその侍女は走った。
 もう一人の侍女が地に仆れた。その瞬間に握ったのでもあろう、起き上った時に右の手に、野茨《のいばら》の花を握っていた。枝も一緒に握ったものと見えて、その枝の刺《とげ》に刺されたらしく、指から生血がにじみ出ていた。しかし彼女は夢中だと見えて、枝つきの野茨を捨てようともせずに、血を流したままでひた走った。
 と、もう一人の侍女が仆れた。仆れた所に石があったと見える、それで後脳を打ったと見える、仆れたままで悲鳴を上げて、両手で後脳を抱えるようにして、ゴロゴロと地上を転がった。が、それでも飛び起きると、解けて乱れてバラバラになった、長い髪を背後《うしろ》へなびかせたままで、先へ先へとひた走った。
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」
 呼びながら侍女達は走って行く。
 こうして半里は走ったであろう、侍女達はすっかり疲労した。
 飛騨という山国へ別天地を創って、そこに住んでいる女達である。都会の華奢《きゃしゃ》な女などとは、体格においても著しく強く、曠野や山道を走ることにかけても、遥かに勝れてはいるのであったが、お嬢様の小枝を丹生川平の者に、誘拐されようとした時に、女ながらも命限りに、丹生川平の若者達と、争って充分疲労《つかれ》ていた。その上に半里の道程を、死に物狂いに走って来たのである。疲労切ったのは当然と云えよう。
 とうとう侍女達は草の上へ坐って、慟哭の声を上げ出した。もう一寸も歩けないのであった。
 慟哭をしている侍女達を巡って、曠野は広く物寂しく、しかし草の花や灌木の花に、華やかに飾られて拡がっていて、その草の花の間から、また灌木の花の間から、兎や野猫や黄鼬《てん》などが、いぶかしそうに顔を覗かせ、侍女達の方を窺った。それらの物の上にあるのは、晴れた六月の蒼い空と、燃えている六月の太陽とで、鳶らしい鳥や烏らしい鳥や、鷹らしい鳥や野鳩らしい鳥が、そういう地上の悲惨事などには、関係《かかわり》がないというように翼を揮って翔《か》けてもいた。
 走って行く力はなくなっていたが、声を上げる力は残っていた。
 で侍女達は慟哭しながら、
「オ――イ! オ――イ! オ――イ! オ――イ!」と、呼んだ。
 悲しみに充ちた声であった。曠野にはいつの場合でも、微風が渡っているものである。その微風に乗りながら、その悲しい侍女達の声は、遠くへ送られて行くようであった。
 とはいえ半里をへだてている、白河戸郷の郷へまでは、送られて行くものとは思われない。
 しかし侍女達は呼びつづけた。
 と、行く手に小さい林が、青葉を光らせて立っていたが、その林から四人の若者が、姿を現わして小走って来た。
 小枝の一行が花野の景色の、美しさに魅せられて丹生川平の方へ、うかうかとして彷徨《さまよ》って行って、久しく経っても帰って来ないのに、不安を感じて様子を見に来た、白河戸郷の郷民達であった。
 四人の若者は走り寄って来た。
「や、これはどうしたのだ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「お前方お嬢様のお腰元ではないか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「お嬢様はどうした※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 小枝様はどうした」
「泣いていてはいけない! 訳をお云い!」
 慟哭しながら、「オ――イ! オ――イ!」と、呼んでいる侍女達を介抱しながら、四人の白河戸郷の若者達が、忙《せ》わしく訊ねたのはこのことであった。





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