国枝史郎「生死卍巴」(19) (せいしまんじどもえ)
国枝史郎「生死卍巴」(19)
乱闘
敵は一人と見てとって、心に侮《あなど》りを覚えたからであろう、丹生川平の郷民達は、遠くから茅野雄をとりこめ[#「とりこめ」に傍点]て、矢《や》ぶすま[#「ぶすま」に傍点]にかけて射仆《いたお》そうとはしないで、馬を煽《あお》ると大勢が一度に、茅野雄にドッと襲いかかった。
郷民達の叫喚、馬の蹄の音、打ち振る得物の触れ合う音、その得物の閃めく光、馬の蹄に蹴上げられて、煙りのように立つ茶色の砂塵、――それらのものが茅野雄を巡って、茅野雄を埋没させようとした。
こうなっては茅野雄は声を上げて、いかに弁解をしたところで、相手に受け入れられる望みはなく、虐殺されるばかりであった。
(戦って逃げるより仕方がない!)
とは云え相手は大勢であり、ことには悉《ことごと》く騎馬であった。徒歩《かち》で刀を揮ったところで、駆け仆されるのがおち[#「おち」に傍点]であった。
(一人叩っ切って馬を奪ってやろう)
馬の前脚を諸《もろ》に立てて、茅野雄をその馬の脚の下《もと》に、乗り潰そうと正面から、逼って来た一騎の郷民があった。
乗りかけられたらそれまでである。何のむざむざ乗りかけられよう。見て取った茅野雄は横筋違《よこすじかい》に、さながら矢のように素走ったが、擦れ違いざまに馬の脚へ、一刀サッと浴びせかけた。
嘶《いなな》きの声がしたかと思うと、ドッと横仆しに馬が仆れ、乗っていた敵がとんぼ[#「とんぼ」に傍点]返って落ちた。
と、その仆れた馬の胴へ、他の馬が躓《つまず》いて乗ってきた敵が不覚にも、ズルズルと馬背《ばはい》を辷《すべ》り落ちた。
と、その馬の背の辺りへ、手甲《てっこう》を穿《は》めた二本の腕が、素早くかかったと思ったが、その時には一人の旅装《よそお》いをした武士が、既に馬背に乗っていた。
そうしてその次の瞬間には、丹生川平の郷民達の群から、数間先を走っていた。
他ならぬ宮川茅野雄である。
驚き周章《あわて》た大勢の声が、ひとしきり背後で聞こえたかと思うと、すぐに弦音《つるおと》が高く響いた。
丹生川平の郷民達が、茅野雄を射って取ろうとして、半弓を数人で射かけたのである。
しかし彼らは周章ていた。で、狙いが狂ったものと見えて、走って行く茅野雄の左右と頭上を、空しく征矢《そや》は貫いた。
が、その次の瞬間には、大勢の追って来る蹄の音が、茅野雄の後から聞こえてきた。と思う間もあらばこそであった。走って行く茅野雄の右と左へ、馬の首が数頭現われたが、見る見る茅野雄を追い抜いて、数間の先へ現われた。次々に数を増して来る。
茅野雄は武術の一通りには、達していることは達していたが、馬術は精妙とは云われなかった。
これに反して丹生川平の、郷民達と来た日には、生活から来る必要として、充分に馬術に達していた。曠野を自在に駆けることも、森林の中を縦横無尽に、走り廻ることも出来るのであった。
で、今も茅野雄を追い抜いて、その前方へ現われて、茅野雄の行く手を扼《やく》したのである。
こうなっては茅野雄は仕方がなかった。がむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]に前面の敵に向かって、切り散らして逃げるより方法がない。
しかし茅野雄は考えた。
(ここは曠野で隠れ場所がない。どこまで逃げてもまる[#「まる」に傍点]見えだ。また追いつかれて扼されるであろう。これはどうしても林の中か、森の中へ駆け込んで、身を隠さなければ仕方がない)
で、背後を振り返って見た。
曠野を仕切って壁のように、連らなっている大森林があった。
(あの森林の中へ入ってやろう)
で、茅野雄は突嗟の間に、手綱をしぼると馬を廻し、一散に後へ引っ返した。
その行く手には馬に乗った、丹生川平の郷民達が、得物を揮って群がっていたが、駈けて来る茅野雄の必死の姿に、気を呑まれたか道をひらいた。で、茅野雄は駆け抜けた。
と、これはどうしたのであろう、ドッと背後から大勢の者の、笑う声が聞こえてきたではないか。
こういう危急の場合にも、笑われて見れば気持が悪い。そこで茅野雄は振り返って見た。
丹生川平の郷民達が、遥かの後方に屯《たむろ》していて、茅野雄の方を指さして、笑っているのが見てとれた。
(何故あいつらは笑っているのだ? 何故俺を追っかけて来ないのだ?)
とは云え彼ら丹生川平の、郷民達から云う時には、笑うべきことに相違なかった。
というのは大森林の奥所《おくど》にあたって、丹生川平があるのであるから。
(あの可哀そうな旅の武士は、自然に一人で俺達の郷へ、惨《いじ》められるために駆けて行く)
で、指さしをして笑ったのであった。
そういうことを茅野雄は知らない。
で、馬を走らせた。
しかしその時背後の方にあたって、忽然鬨の声がわき起こったので、振り返らざるを得なかった。
何を茅野雄は見たであろう?
丹生川平の郷民達の群へ、一団の人数が襲いかかって、凄まじい戦いを演じている。
白河戸郷の郷民達が、ようやくこの時駈けつけて来て、丹生川平の郷民達へ、殺到したに他ならなかった。
しかし茅野雄その人にとっては、そんな事情は解らなかった。
(この隙に森林の中へ入り、危険から遁れることにしよう)
で、いよいよ馬をあおって、森林の方へ駈けて行ったが、間もなく姿が見えなくなった。
森林が茅野雄を呑んだのである。
物語少しく後へ戻る。
飛騨の萩村は街道筋における、相当に賑やかな駅《うまやじ》であって、旅籠《はたご》屋などにもよいものがあった。
宮川茅野雄が難を受け、森林の中へ姿を没した、ちょうどその日のことであったが、この萩村の四挺の駕籠が、旅人を乗せて入り込んで来た。
夕暮のことであったので、旅籠屋の門口《かどぐち》では出女《でおんな》などが、大声で旅人を呼んでいた。
その一軒の柏屋《かしわや》というのへ、一挺の駕籠が入って行った。
駕籠から現われたのは若い武士であったが、高貴の身分のお方らしく、云われぬ威厳を持っていた。
で、丁寧にあつかわれて、奥まった部屋へ通って行った。
その武士の乗っていた駕籠の後から、もう一挺の駕籠がついて来たが、これは柏屋の前を過ぎて、先の方へ向かって進んで行った。
が、どうしたのか不意に止まると、ユルユルと後へ引っ返して、柏屋の門口で止まってしまった。
と、その中から客が出たが、それは威厳のある老武士であった。
そうしてこの武士も丁寧に、下女に奥の間へ案内されて、姿を消してしまった時、二挺の駕籠が肩を揃えて、同じ柏屋の門口へ止まった。
一挺の駕籠から現われたのは、身分に見当の附かないような、小気味の悪い老人であったが、もう一挺の駕籠から現われたのは、美しい若い女であった。
この二人はどうやら連れと見えて、二言三言囁いたかと思うと、打ち揃って奥の部屋へ通って行った。
その後でも幾組か泊まり客があったが、特に目立つような客はなかった。
全く日が暮れて夜となった。
「お泊まりなさいまし」「柏屋でございます」「へいへいこれはお早いお着きで」――などと云っていた出女の声も、封ぜられたようになくなって、萩村の駅は寂静《ひっそり》となった。
こうして夜が次第に更け、柏屋でも門へ閂《かんぬき》を差した。客も家の者も寝《しん》についたらしい。
で、何事もなさそうであった。
では何事も起こらなかったか?
いやいや変わった事件が起こった。
奥に一つの部屋があったが、消えていた行燈《あんどん》が不意に点《とも》り、ぽっと明るく部屋を照らした。
見れば一人の老武士が、床から起きて行燈の側《そば》に、膝を揃えて坐っている。
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