国枝史郎「生死卍巴」(20) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(20)

老武士は?

 二番目に着いた駕籠の中から、立ち現われた老武士であった。
 何やら口の中で呟いたかと思うと、老武士は部屋の中を見廻した。と、にわかに立ち上った。それからそっと襖《ふすま》をあけて、隣り部屋の様子を窺《うかが》った。
「隣り部屋には客がない」
 で、安心したようであった。が、再びそろそろと歩いて、反対側の襖へ行くと、細目に開けて覗いて見た。
「有難い、この部屋にも客がない」
 しかしそれでも不安心と見えて、廊下に向かった障子をあけると、顔を差し出して左右を見た。
「よし」――で、引っ返し、二度行燈の側へ坐り、両手を袂《たもと》から懐中《ふところ》へ入れた。
 取り出したのは小箱であったが、真に美しい鯖《さば》色の光が、小箱の中から射るように射して、部屋を瞬間に輝やかした。
 小箱の中を覗いている、老武士の顔の嬉しそうなことは!
 この老武士は何者であろう?
 他ならぬ松平碩寿翁《せきじゅおう》であった。
 それにしても何のためにこのような所へ、碩寿翁ともある人が、供も連れずに来たのであろう?
 それには怪奇な事情がある。
 根津仏町勘解由店《かげゆだな》の刑部《おさかべ》屋敷の露地口で、京助という手代から、一個《ひとつ》の品物を奪い取って以来、碩寿翁は蠱物《まじもの》にでも憑《つ》かれたかのように、心が絶えず動揺し、心が恐怖に襲われた。
 時にはこんなように口走ったりした。
「あのお方があんな所にいられようとは! ……俺はとうとう感付かれてしまった。……俺に恐ろしいはあのお方ばかりだ。俺は体を隠さなければならない」
 で、恐怖に耐えられなくなって、江戸を発足したのであった。
「長崎へ行こう! 長崎へ行こう!」
(この素晴らしい値打ちのある物を、売るのはいかにも惜しいけれど、あのお方にあのように感付かれた以上は、とうてい持ってはいられない。売って金に代えることにしよう。これほどの物を買い取る者は、長崎の蘭人《らんじん》の他にはない)
 で、長崎へ向かったのであった。
 しかるに何という事だろう。碩寿翁の乗っている駕籠の前に、いつも一挺の駕籠がいて、ゆるゆると進んで行くではないか。そればかりなら何でもなかった。その駕籠が強い力をもって、碩寿翁の駕籠を支配するではないか。
 その駕籠が旅籠屋へ入ったとする。と、碩寿翁の乗っている駕籠も同じ旅籠屋へ入るのであった。
 これに気が付いた碩寿翁は、云われぬ恐怖と不思議とを感じて、その駕籠の支配から遁れようとした。
「これこれ駕籠屋、他の旅籠へつけろ」
「へいへいよろしゅうございます」
 ――他の旅籠屋へつけようとする。と、どうだろう、碩寿翁自身が、駕籠の中から云うではないか。
「これこれ駕籠屋どうしたものだ。先へ行く駕籠の入った旅籠へ、すぐこの駕籠をつけてくれ」
 同じ旅籠屋へ泊まるのであった。
 こうして道中をしているうちに、長崎へは行かずに飛騨の山中の、萩村の柏屋へ来たのであった。
 さて今碩寿翁は行燈の側へ、膝を揃えて坐っている。
「この立派過ぎる原形のままでは、人に売ろうにも買い手があるまい。惜しいけれども割ることにしよう」
 憑かれているような碩寿翁であった。こう声に出して呟くと、またも懐中へ手を入れたが、掌《てのひら》の中へ隠れるほどにも、小さい長方形の揉み皮張りの、小箱を取り出して膝の上へ置いた。すぐささやか[#「ささやか」に傍点]な音のしたのは、その箱の蓋《ふた》があいたからであろう。何が箱の中に入っていたか? 日本の国内では見られないような、精巧を極めた洋鑢《ようやすり》だの、メスだの錐《きり》だのの道具類が、整然として入っていた。
 碩寿翁であったがメスを取ると、右手でメスの柄を握って、注意しいしい下へ下ろした。
 下りて行くメスの下にあるのは、真に美しい鯖色の光を、ギラギラと空へ投げている、そう云う品物を底に蔵した、例の小さい箱であった。
 しかるにこの時隣りの部屋で、囁き合っている男と女があった。
「今夜こそどうでも取らなければならない」
 こう云ったのは男であった。
 すると女が囁き返した。
「そうとも、どうしても取らなければならない」
「眠っているだろうか? 起きているだろうか?」
「そっと襖をあけてごらんよ」
「何となく俺には恐ろしい。碩寿翁様が相手だからな」
「と云ってうっちゃっては置かれないよ。……ここまで尾行《つけ》て来た甲斐《かい》だってないよ」
「それにしてもどういうお考えから、碩寿翁様には飛騨などという、こんな山国へ来られたのだろう?」
「私達には関係《かかわり》はないよ。……襖をあけて覗いてごらんよ」
 ここの部屋には燈火《ともしび》がなかった。
 で、二人の男と女の、姿を見ることが出来なかった。
 が、もし燈火があったならば、囁き合っている男と女が、夕暮時に柏屋の門《かど》へ、二挺の駕籠を並べてつけ、揃って奥へ通って行った、老人と若い美しい、女とであることが見て取れたであろう。
 しかしそれにしても碩寿翁が、さっき方この部屋を覗いた時には、客がなかったはずである。
 それだのに今は二人もいる。
 これはどうしたことなのであろう?
 思うに二人の男と女は、どこか別の部屋にいたのであったが、この時その部屋から忍び出て、この部屋へ潜入したのであろう。
 と、この部屋へ一筋の、細い明るい光の縞が出来た。
 男が襖をあけたので、隣りの部屋の行燈の火が、隙間から射して来たのであった。
「あッ」と、云う声が突然に起こった。
「大変だ! 割りおる! 二つに割りおる!」
 つづいてこう云う声がした。
「汝《おのれ》! 無礼! 覗きおったな!」
 間髪を入れず風を切って、物を投げる音がヒューッとした。
 しかし、続いて清浄と威厳と、神々《こうごう》しさを備えたような声が、どこからともなく聞こえてきた。
「物は完全に保つがよい! 美しさも神聖さも完全にある! ……碩寿翁、碩寿翁、物をこぼつな!」
 この時碩寿翁は刀を抜いて、部屋の一所に立っていたが、その眼は細く開けられている、襖の一方に注がれていた。見れば襖の縁の辺りに、碩寿翁が投げたらしいメスが一本、鋭く光って立っていた。
「…………」
 無言で碩寿翁は眼を返したが、反対側の襖を睨んだ。清浄で威厳のある神々しい声が、その襖の奥の方から、碩寿翁へ聞こえてきたのである。
「恐ろしいことだ! 恐ろしいことだ!」
 碩寿翁はワナワナと顫え出した。
「今のお声はあのお方のお声だ!」
(しかしどうしてあのお方が?)
 で、碩寿翁はヒョロヒョロと歩いて、襖の方へ寄って行ったが、恐る恐る襖を引きあけた。
 空虚! 闇! 人の姿はなかった。
「二組の人間に狙われている! 俺は一体どうしたらいいのだ!」
 また佇《たたず》んだ碩寿翁の、足もとに置かれてある小箱から、何と美しく何と高貴な、光が放たれていることか!

 その翌日のことであった。四挺の駕籠が前後して、柏屋の門口からかき[#「かき」に傍点]出され、高山の方へ進んで行った。

 四方を森林に囲まれているので、丹生川平《にゅうがわだいら》は丘の上にあったが、極めて陰気に眺められた。
 切り株に腰をかけながら、話している若い男女があった。
「あなたには大分変わられましたな。昔より陰気になられたようで」
「……でもあなたがおいでくださいまして、陽気になりましてございます。……あなた、お体はよろしいので?」
「いずれも微傷《うすで》ゆえ大丈夫でござる。……が、あのような経験は、拙者、一度で充分でござる」
「何と申し上げてよろしいやら」
「みんな弦四郎めが悪いので」
 二人は茅野雄《ちのお》と浪江《なみえ》とであった。
 と、背後《うしろ》から声がした。
「まあそう拙者を憎まないがよろしい。……大した悪人でもありませぬからな」





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