国枝史郎「生死卍巴」(25) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(25)

長閑な会話

 しかしその時には浪江を抱いたまま、茅野雄は背後へ飛び退いていた。
 茅野雄と浪江とは若かった。その行動も敏捷であった。
 しかし覚明は老人であった。行動は鈍く敏捷でなかった。
 このままで推移したならば、茅野雄と浪江とは遁れられるかも知れない。
 と、云うことが解ったと見える。
 大音声に覚明は叫んだ。
「教法の敵こそ現われましたぞ! 方々出合って打って取りなされ!」
 オーッという応ずる高声と、ワーッという大勢の鬨《とき》の声とが、忽ち四方から湧き起こった。

 しかるにこの頃数人の武士が、丹生川平の境地を下り、例の曠野まで続いている、大森林を分けながら、曠野の方へ辿っていた。
 醍醐弦四郎と部下とであった。
「まごまごしていると追っ払われるぞ」
 こう云ったのは弦四郎であった。
「丹生川平をでございますかな」
 こう云ったのは半田伊十郎であった。
「ああそうだよ、丹生川平をさ」
「お立ち退きなさればよろしいのに」
「途方もないことを云うものではない。あれほどの宝とあれほどの女を、うっちゃることが出来るものか」
「それはまアさようでございましょうが」
「俺が内陣へ入りたがっている。――いやあの晩は入ろうとした――と云うことを覚明殿に見抜かれたのが、失敗だったよ」
「茅野雄も内陣へ入りたがっていたようで」
「だからこそあの晩洞窟の口へ、こっそり忍んでやって来たのさ」
「そこで我々が襲ったという訳で」
 弦四郎の一行は歩いて行く。
「どうともして今度こそ白河戸郷を、退治る方法を講じなければならない」
 まだ弦四郎はこういうように云った。
「で、出かけて来たのだがな」
「ともかく一応白河戸郷へ、潜入する必要がございますな」
「そのためこうやって出て来たのさ」
 弦四郎達は大森林を出た。
 と、美しい花の曠野が、依然として人の眼を奪うばかりに、弦四郎達の眼の前に拡がった。
 灌木に隠れ、丘に隠れ、弦四郎達は先へ進んだ。
 と、にわかに立ち止まり、弦四郎はグッと眼を見張った。
 白河戸郷の方角から、三人の男と一人の女とが、長閑《のどか》そうに話しながら来たからであった。
「はてな」と、弦四郎は打ち案じた。
「遠目でハッキリとは解らないが、見たことのあるような連中だ」
 で、じっと尚も見た。
 歩いて来る四人は何者なのであろう?
 一人は一ツ橋慶正《よしまさ》卿であり、一人は松平碩寿翁《せきじゅおう》であり、一人は刑部《おさかべ》老人であり、一人は巫女の千賀子なのであった。
「よい眺めだの」と、慶正卿が云った。
「花園のようでございます」
 碩寿翁がすぐ応じた。
「こういう景色を見ていれば、悪事などしたくなくなるだろうな」
「まさにさようでございます」
「京助などという穏しい手代を、殺そうなどとは思うまいな」
「とんだところでとんでもないことを」
「が、安心をするがよい。あの男は私が助けてやった。今頃は貧しいが清浄な娘と、つつましい恋をしているだろう。……それはそうと千賀子殿」
「はい」と、千賀子は慇懃《いんぎん》に云った。
「昔のあなたになれそうだの」
「殿様のお蔭にございます」
「それはそうと刑部老人」
「はい」と、刑部老人は云った。
「その物々しい白い髯は、そうそう苅ってしまってはどうか」
(おやおや)と、刑部老人は思った。
(俺ばかりが歩が悪いぞ。髯の悪口を云われたんだからな)
「殿様のご注文でございましたら、早速髯など苅りましょうとも」
「苅った髯は店へ並べるがいい」
「並べる段ではございません」
「それだけが本物ということになる」
「それだけが本物と仰言《おっしゃ》いますと?」
「お前の店にある他の物は、確かことごとく贋物《にせもの》のはずだ」
(いよいよ俺だけが歩が悪いぞ)
「そうばかりでもござりませぬがな」
「いけないいけない嘘を云ってはいけない」
「アッハハ、そうでございますかな」
「もっとも店の主人公が、店の物は贋物でございますと、自分から云うことは出来まいがな」
「はい信用にかかわりますので」
 長閑に話しながら歩いて来る。
 一ツ橋慶正卿と碩寿翁と、千賀子と刑部老人とが、こう話しながら先へ進み、曠野を大森林へまで辿って行き、大森林の中へ入って、全く姿を消した時、四人の後を見送って、不思議そうに呟いたものがあった。
「碩寿翁と千賀子と刑部老人ではないか! 何と思ってこんな所へ、ああも揃って来たのだろう! もう一人のお方は知らないが、威厳があってまるで貴人のようだった」
 隠れ場所から現われた、それは醍醐弦四郎であった。
 何のためにそういう人達が、揃ってこの地へ現われて、大森林の中へ、入って行ったか? ハッキリしたことは解らなかったが、こう云うことは感じられた。
(貴人のようなお方は別として、他の三人は俺の狙っている物を、同じように狙っている人達だと、こう云ってもよさそうである。さてそういう人達が、大森林の中へ入って行ったのだ。大森林の彼方《あなた》には、丹生川平が存在する。丹生川平の神殿には、その「狙っている物」があるはずだ。で、連中はそこへ行って、その物を取ろうとするのかもしれない。うっかりすると横取りされるぞ)
 とは云え弦四郎は引っ返して、丹生川平へ帰って行って、その四人の人達を相手に、「狙っている物」を競争しようという、そう云う気持にはなれなかった。
(碩寿翁一人を相手にしても、俺に勝ち目はありそうもない。まして、四人を相手にしては……)
 とても駄目だと思われるからであった。
(それよりも急いで白河戸郷へ行き、小枝《さえだ》という娘を引っ攫《さら》って来よう。そうして、それを功にして、覚明殿に話し込み、神殿の内陣へ入れて貰おう。入ったが最後盗んで逃げよう。碩寿翁をはじめ四人の者が、どのような権威者であろうとも、行ってすぐに覚明殿に談じ込んだところで、覚明殿にはおいそれ[#「おいそれ」に傍点]と、四人を内陣へは入れないだろう。四人が内陣へ入らない先に、小枝を奪って丹生川平へ帰ろう)
 で、弦四郎は部下を急がして、白河戸郷の方へ足早に進んだ。

 ここは洞窟の内部であって、暗々《あんあん》とした闇であった。
 と、その闇の一所から、男女の囁く声がした。
「浪江殿、これからどうしましょう?」
「とうてい外へは出られません。奥へ参ることにいたしましょう」
 男女は茅野雄と浪江とであった。
 郷民達に襲われたので、茅野雄は殺生とは思いながら、幾人かの郷民を叩っ切り、浪江を連れて逃げ廻るうち、岩山の洞窟の口まで来た。と、洞窟の口があいた。外の騒ぎが烈しかったので、洞窟を守っていた番人が、外の様子を見ようとして、内部から扉を開けたのであった。
 そこで茅野雄は(しめた!)と思った。(洞窟の中へ入ってやろう)――で浪江を引っ抱えて、洞窟の中へ突き進んだ。と、番人が切ってかかった。それは峰打ちに叩き仆して置いて、茅野雄は中から扉を閉じ、ガッシリと閂《かんぬき》を下ろしてしまった。
 ――で、今、洞窟の中にいるのであった。
 外から大勢の郷民達が、扉を叩いたり喚き声を上げたり、番人に向かって扉をあけるようにと、命じている声が塊《かた》まり、ワーンというように聞こえてきたが、番人は気絶をして仆れていた。なんの扉をあけることが出来よう。
 で、今のところ茅野雄も浪江も一時安全を保つことが出来た。
 とは云えいつまでも洞窟の中に、隠れていることは出来そうもなかった。食べ物だってないだろう。飲み水だってないだろう。
 しかしながら外へは出られなかった。出たが最後に二人ながら、兇暴になっている郷民達のために、私刑にされるに相違ないのであるから。
「そう、とうてい今のところ、外へ出ては行かれますまい。そう、それではともかくも、奥へ進んで参ることにしましょう」
 こう云うと茅野雄は奥へ向かって歩いた。
 と、浪江が囁くように云った。
「行く先に幾個《いくつ》か関門があります。そこには番人が守っております。……妾《わたくし》、先へ立って参りましょう。妾が声をかけましたら、番人達は扉をひらきましょう。と云うのは、妾と父上とばかりが、関門をひらかせる特別の権利を、持っているからでございます」





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