国枝史郎「生死卍巴」(28) (せいしまんじどもえ)

国枝史郎「生死卍巴」(28)

超人

 しかしそういう夢中になっている、茅野雄の耳へ殺到して来る、大勢の足音や喚き声や、打ち物の烈しく触れ合う音が、聞こえてきたのは間もなくであった。
 そうしてその次の瞬間には、宮川覚明と郷民達とが、石段の下まで襲って来たのを迎え、神殿を背後に神像の前に、抜き身を中段に構えた茅野雄が、その足もとに仆れている浪江の、気絶をしている体を置いて、決死の姿で突っ立っていた。
 しかしその次の瞬間には、切りかかって来た郷民の二人を、石段の上へ切り仆した茅野雄の、物凄い姿が見受けられた。
 全く物凄いと云わざるを得ない。
 乱れた髪、返り血を浴びた衣裳、はだかった胸、むきだされた足、そうして構えている刀からは、鍔越《つばご》しに血がしたたっている。が、そういう茅野雄の肩の、真上にあたる背後《うしろ》の方から、例の神像の一眼が、空から下りて来た星かのように、鋭い光を放っているのが、わけても凄く見えなされた。
 しかもそういう茅野雄の前には、無数の郷民が打ち物を揃えて、隙があったら切り込もうと、ひしめき合っているのであった。
 そういう郷民達の群の中に、ひときわ背高く見えている、妖精じみた老人があったが、他ならぬ宮川覚明で、杖を頭上にかかげるようにすると、
「神殿の扉を無断で開け、アラ神を曝露した涜神の悪人、茅野雄は教法の大敵でござるぞ! 神も虐殺を嘉納なされよう! 何を汝《おのれ》ら躊躇しておるぞ! 一手は正面からかかって行け! 一手は左からかかって行け! そうして一手は右からかかれ!」と、狂信者特有の狂気じみた声で、荒々しく叫んで指揮をした。
 それに勇気をつけられたのであろう、三方から郷民達は襲いかかった。
 その結果行なわれたことと云えば、正面から襲って行った一手の勢が、茅野雄のために切り崩され、なだれるように下りたのに引かれて、茅野雄も下へ下りた隙に、左右から襲って行った二手の勢が、段上を占めたことであった。
 下へ下りた茅野雄を引っ包んで、郷民達の渦巻いている姿が、こうしてその次には見受け[#「見受け」は底本では「身受け」]られたが、しかしその次の瞬間には、渦巻が左右に割れていた。
 と、その割れ目を一散に走って、黒石《アラオ》の方へ行く者があり、やがて黒石の上へ、片足を掛けて休んだ者が見られた。
 数人の郷民を切り斃して、そこまで行った茅野雄であった。
「黒石を土足で穢した逆賊!」
 すぐに覚明の喚く声がした。
「躊躇する汝らも逆賊であろうぞ!」
 またも茅野雄を取り囲んで、人間の渦が渦巻き返った。
 しかしその次には全く意外の、驚くべき事件が演ぜられた。
 老人の声ではあったけれど、底力のある威厳のある声で、
「極東のカリフ様がおいでなされたぞ! 謹んでお迎えなさるがよろしい!」
 つづいて威厳と清浄と、神々しさと備えたような声が、若さをもって聞こえてきた。
「覚明殿、殺生はお止めなされ!」
 一同の者は声の来た方を見た。
 一ツ橋慶正《よしまさ》卿の高朗とした姿が、老将軍のような碩寿《せきじゅ》翁を連れて、此方《こなた》へ歩いて来るのが見られた。
 大森林の中で野馬を捕らえ、丹生川平へ駛《はし》らせて来た、慶正卿と碩寿翁とが、この時到着したのであった。
 超人《スーパーマン》には常人などの、及びもつかない神性がある。駕籠に乗って歩かせていたばかりで、碩寿翁ほどの人物を、目的の長崎へやろうとはせず、飛騨の地へ来させてしまったことなどは、神性のしからしむるところであり、茅野雄と浪江との恐ろしい危難を、洞察したのもそれであり、飛騨の地に回教を密修している、二つの郷のあることと、回教にとって重大の価値ある、ある「何か」が多くの人の、さまざまの手を通したあげく、この飛騨の地で「あるべき所へ帰る」――そういうことを洞察して、そうしてこの地へ出て来たことも、神性のしからしむるところであった。
 いやいやむしろこの飛騨の地で、従来散失していたものを、一所に集めようと心掛けて、その神性を働かせて、それに関係ある一切の人を、この地へ集めたと云った方が、中《あた》っているように思われる。
 そういう超人の慶正卿であった。
 その神々しい風采は狂信者の覚明や郷民達をさえ、恭謙の心へ導いてしまった。
 で、にわかに洞窟の内は、静粛となり平和となった。
 と、そういう洞窟の内を、一応見廻した慶正卿は、神殿の方へゆるゆると進んだ。
 右手を前へ差し出している。その掌《てのひら》から鯖色[#「鯖色」は底本では「錆色」]の光が、矢のように鋭く、射し出ていたが、その光は神像の一眼の光と、全く同じものであった。
 碩寿翁の持っていた小箱の中の物品! それと全く同じ物で、碩寿翁から慶正卿が、横取ったものに相違ない。
 石段を上ると慶正卿は、敬虔に神像の前に立ち、右手を神像の方へ差し出したが、ややあって神像から立ち離れ、神殿の横手へ佇んだ。
 片眼であった神像の眼が、二つながら今は明いている。例の鯖色の素晴らしい光が、両眼から燦然と輝いている。
 と、歓喜の高い声が、洞窟の内へ響き渡った。これは覚明を初めとして、集まっていたほどの郷民が、両眼を備えた神像に対して、思わず上げた歓声なのであった。
 しかしこの時意外の意外として、洞窟の外とも思われる辺りから、素晴らしく高い大勢の讃歌の声が聞こえてきた。

 ここは洞窟の外である。
 六尺ぐらいのアラ神の像を、神輿《しんよ》に舁《か》きのせた数百の男女が、洞窟の入り口に屯《たむろ》していた。
 数人の武士がその中にいたが、何と高手小手に縛られているではないか。醍醐弦四郎とその部下とであった。
 そうして群衆は白河戸郷の、郷民達に他ならなかった。
 その証拠には群衆の中に、以前に宮川茅野雄へ向かって、道を教えたことのある、また、同じ宮川茅野雄を、暗夜に襲って殺戮しようとした、老樵夫《ろうそま》のような人物が――もっとも今は威厳と信仰とを、具現したような風采をしている――白河戸将監《しょうげん》その人が、娘の小枝《さえだ》を側《そば》に立たせ、自身も神輿の横に立って、郷民達と讃歌をうたっていた。
 見れば大勢の郷民の中に、巫女《みこ》の千賀子も雑《まじ》っていれば、刑部《おさかべ》老人も雑っており、松倉屋勘右衛門も雑っていれば、杉次郎も弁太もお菊なども、同じように雑っていた。
 一ツ橋慶正卿の言葉に従い、まず将監は白河戸郷の山岳宗教境を破壊した上、千賀子の元から奪い取り白河戸郷の神体としたアラ神の像を神輿に納め、「神像の完璧」を行なうために丹生川平へ進んで行こうとした時、醍醐弦四郎とその部下とが白河戸郷へ入り込んで来て小枝を奪い取ろうとしたのですぐに捕らえて縛り上げ、道々勘右衛門の一行と千賀子と刑部老人とを収容してここまで来たのであった。
 勿論彼らは丹生川平と、戦いをするために来たのではなくて、和睦《わぼく》するために来たのであった。
 やがて彼らの一団は、洞窟の入り口から中へ進み、間もなく神殿の前まで来た。
 行なわれたことは何であったか?
 この物語に関係のある、一切の人物と物品とが、一所に揃ったことであった。




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