国枝史郎「染吉の朱盆」(07) (そめきちのしゅぼん)

国枝史郎「染吉の朱盆」(07)

     七

 今日の上根岸、百十八番にあたるあたり、その頃は空地で家などはなかった。
 ところが一軒だけ屋敷があった。
 黒板塀、忍び返し、昔はさぞかしと思われるような寮構えだが大きな屋敷だ。無住で手入れが届かないと見え、随分あちこち破損している、植込などは荒れている。屋敷の周囲には雑草が生え冬だから狐色に枯れている。うっかり歩くと足にからむ。三尺ももっとも[#「もっとも」に傍点]丈延びている。
 これが名高いお縫様屋敷だ。
 そこへやって来た男がある。他ならぬ岡引の岡八だ。
 星空の下に佇んで、見上げ見下ろしたものである。
 それから忍びやかに動き廻った。
 岡引の探偵法、今も昔も大差ない。塀へ横ッ面をおっ付けたのは、家内の様子を窺ったのである。地面を克明に探がしたのは、人が歩いたか歩かなかったか、そいつを調べたに相違ない。三度ばかり屋敷をグルグルと廻わった。忍び込む口を目付けたのだろう。
 屋敷へ背を向けてヒョイとかがんだ。はてな? 何をする気だろう? 一ツポツリ赤いものが見えた。何ん点だ、つまらない、たばこの火だ。
「界隈の奴等は馬鹿揃いだなあ。何んのこいつが無住なものか、人間二十人も住んでいらあ」岡八呟いたものである。「全く御時世は、なげかわしいよ。こんな大変な悪党どもが、こんなにも一所に集まって、大それたことをしているのに、盲目同様気がつかないんだからなあ」二服目のたばこをふかし出した。「そうはいっても俺だって、トンチキでないとはいわれないよ。今日まで気づかずにいたのだからなあ」
「さてこれからどうしたものだ」たばこを喫い切ると考え込んだ。「用心堅固に構えているなら、かえって安々忍び込めるのだが、彼奴等まるで不用心だ。すっかり世間を甞め切っていやがる。それだけにちょっと物凄いよ」
 ポンともう一度煙管を抜き出し、またたばこをすい出した。
「一人で十二人はあげられ[#「あげられ」に傍点]ねえなあ」岡八またも考え込んだ、「帰って若いのをつれて来るかな?」煙管が地面へ落ちたのさえ、気づかない程に考え込んだ。「とはいえ一応中味も見ずに、食らいつくことも出来ないからなあ。……矢っ張り[#「矢っ張り」は底本では「失っ張り」]思い切って忍び込んでやれ。……だが俺は先刻名乗ったんだからなあ。彼奴等用心をしているかもしれねえ。……とそこまで取越苦労をしたら仕事なんか出来ねえということになる。……というものの薄ッ気味が悪い! 普通の悪党じゃァないんだからなあ。……などといっていると夜が明ける。……かまうものか、忍び込んでやれ!」
 塀にピッタリ体をつけさっと捕縄を忍び返しにかけて[#「かけて」は底本では「かけた」]スルスルスルスルとよじ上った。と、もう姿が見えなくなった。岡八、屋敷へ忍び込んだのである。

 その翌日のことである。
「兄貴家かえ」とやって来たのは、他ならぬ岡引の半九郎であった。
「昨日出たきり帰らないよ」
 こういったのは岡八の女房、鳥渡仇めいた女である。
「兄貴としちゃァ珍しいね」
「私も心配しているのさ」
「で、矢っぱりご用でかい?」
「半九郎の奴に鼻あかせてやる、こういいながら出て行ったよ」
 すると半九郎笑い出してしまった。
「アッハハハこいつァ面白え。少し兄貴も若耄碌《もうろく》をしたな」
「なぜさ?」とお吉《よし》――岡八の女房――怒ったようにきき返した。
「ナーニこっちの話でさ。……あそれじゃあ姐御、また来やしょう」
 往来へ飛出したが吹出してしまった。
「あの物語りの謎解きをしようと、探ぐりに出たとはどうかしているよ。岡八の兄貴もヤキが廻ったなあ。そんな年でもない癖に」
 その翌日のことである、またも半九郎尋ねて来た。
「姐御、兄貴はお家かね?」
「それがさ、半さん、どうしたんだろう、いまだに帰って来ないんだよ」
 お吉の顔に憂色がある。
「へえ」といったが半九郎も、眉の間へ皺を寄せた。
「おかしいなあ、何んてえことだ」
「こんなことめった[#「めった」に傍点]にないんだがねえ」
 お吉いよいよ心配そうである。
「そうだ実際お上のご用で、遠ッ走りをする時の外は、決して泊って来ねえのが、岡八兄貴のいい所でしたね。……ふうむ、こいつァ変梃[#「変梃」は底本では「変挺」]だぞ」腕をこまぬいたものである。




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