国枝史郎「前記天満焼」(02) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(02)



「去年からかけて天候不順、五穀実らず飢民続出、それなのに官では冷淡を極め、救恤《すくい》の策を施そうともしない。富豪も蔵をひらこうともしない。これでは先生が憤慨されるはずだ。とは云え他人の大切なものを、横取りをして金に換えたら、盗賊とより云うことは出来ない。それを先生にはやろうといわれる。俺には正当に思われない。そればかりならともかくも、兵を発し乱を起こし、城代はじめ両奉行をも、やっつけて[#「やっつけて」に傍点]しまおうとの思し召し、成功の程も覚束ないが、よしや成功したところで、乱臣の名は免れまい。……あれほど明智だった中斎先生も、近来は少しく取り違えて居られる。……狂ったのかな、あの明智も……」
 考え考え考えあぐみ、木立のある所まで来た時であった。卑怯にも左右から声も掛けず、何者か二人切り込んで来た。
「おっ」と叫んだがそこは手練、宇津木矩之丞《のりのじょう》剣道では、一刀流の皆伝である、前へパッと飛び越した。
 と、もう引き抜いていたのである。
「無礼! 誰だ! 宣《なの》らっしゃい! 拙者宇津木矩之丞、怨みを受ける覚えはない」
 ピッタリ青眼に太刀を構え、先ずもって声をこう掛けた。
 二人ながら返事をしなかった。星空の下に突っ立っている。そうしてヂリヂリと逼って来る。
「はてな?」と矩之丞が呟いたのは、敵に見覚えがあったからである。そこで、怒声を浴びせかけた。
「やあ汝《おのれ》は同門の、飛田庄介に前川満兵衛! 何と思って切ってかかったぞ?」
 だがここまで云って来て、急に矩之丞は口を噤《つぐ》んだ。
「いよいよこいつら隠密だわえ。それと観破したこの俺を、邪魔にして殺そうとするのらしい。いやかえって面白い。知れた手並だ、叩っ切り、中斎先生の身辺から、危険分子を払ってやろう」
 ――矩之丞はそこでヌッと出た。
 だが、何と危険なんだ、又も一つの人影が、木立の陰から現われたが、矩之丞の背後へシタシタと寄った。
 途端に飛び込んで来た前面の敵、すなわち飛田と前川が、鋭く声を掛け合ったのは、牽制しようとしたのだろう。果然、同時に、背後の敵、こいつは無言で抜き持った太刀で、矩之丞の背骨から胸板まで、グーッと一気に両手突いた。
 と、「アッ」という悲鳴が起こり、連れてドッタリ一人斃れ、つづいて「オッ」という声がした。見れば飛田と前川の二人が、抜身を下げたまま走っている。
 見れば一つの死骸の側《そば》に、一人の武士が立っている。
「あぶなかったよ」と呟いた。他ならぬ宇津木矩之丞であった。血刀をダラリと下げたまま、しばらく呼吸《いき》を静めるのらしい。佇んだまま動かない。
 と、ソロソロと首を下げ、足下の死骸を覗き込んだ。
「うむ、やっぱりそうだったか。……うむ、山村紋左衛門だったか」
 それからホ――ッと溜息をした。
「これで三人が三人ながら、隠密だったということが、証拠立てられたというものさ。狂いはなかったよ、俺のニラミに」
 だが、またもや溜息をした。
「と云うことは半面において、中斎先生の眼力が、狂ったという証拠になる。……和歌山、岸和田に関わる裁判《さばき》、京師《けいし》妖巫《ようふ》の逮捕などに、明察を揮われた先生の眼も、今はすっかり眩んでいるらしい。獅子身中の虫をさえ、観破することさえお出来なさらない。では……」
 と呟くと悄然とした。
「一切の今回のお企てなども、その狂った眼から、性急に計画されたものと、こう解しても、誤りはあるまい」
 フラフラと矩之丞は歩き出した。
「失敗なさろう! 失敗なさろう!」
 譫言《うわごと》のように呟いた。
「とはいえ騒動の失敗は、まだまだ我慢することが出来る。しかし盗賊の汚名だけはどんなことをしてもお着せしてはならない」
 矩之丞はフラフラと歩いて行く。
「うむ」と云うと足を止めた。
「犠牲になろう、この俺が! 辞す所でない、裏切者の汚名!」
 尚フラフラと歩いて行く。
「人を殺したこの俺だ、浪人をしてゴロン棒となり、汚名悪名受けてやろう! 手段はない、この他には。……」
 どことも知れず行ってしまった。
 後にはザワザワと晩春の風が夜の木立を揺すっている。
 天保七年四月中旬の、ある一夜の出来事である。




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