国枝史郎「前記天満焼」(07) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(07)



「おや」と扇女は聞きとがめた。
「何をしたのでございましょう?」
 だが大学は黙っていた。とはいえ顔の表情の中には、困ったことをしやアがる、こんな肝心な大事な場合に――と云ったような気振りが見える。
 物を投げる音に引きつづき、罵り合う声が聞こえてきた。それも二人や三人ではなく、たくさんの人達が大声で、罵り合っているようである。
「静かなお屋敷だと思っていましたのに、どうやら大勢の人達が、おいでなさるようでございますね」
 こう云った扇女の言葉には皮肉の調子がこもっていた。
「女中三人に下僕が二人、閑静な生活《くらし》をしているよ、だから遊びに来るがよい。――などと仰有《おっしゃ》ったお言葉も、あてにならないようでございますね」
 大学は顔を顰めている。神経質らしいところさえ見せ、不機嫌に盃を嘗めている。
 物を投げる音は直ぐ止んだが、罵り声はまだ止まない。
「気味の悪いお屋敷でございますこと。……どれ妾《わたし》は帰りましょう。気味のよくないお屋敷などで、気味の悪い旦那様を相手にし、いつ迄お酒盛りをしたところで、面白くも可笑《おか》しくもございません」
「待てよ」とはじめて鮫島大学は、チラリと凄味を現わしたが、
「帰しはしないよ、遊んで行け。屋敷が不気味であろうとも、この俺が不気味であろうとも、それに怖気を揮うような、初心《うぶ》なお前ではないはずだ」
 ここでニタリと笑ったが、干した盃を突き出した。
「まず一杯、飲むがいい」
「はい」と云うと穏しく、扇女《せんじょ》は盃を手で受けたが、
「酔わせてグタグタにして置いて……などというような厭らしい、野暮なお方でもありますまい」
「またお前にしてからが、男の前で酔っ払い、不様に姿を崩すような、あたじけない[#「あたじけない」に傍点]女でもないはずだ」
 この時、バタバタと足音がして、隣部屋へ人が来たらしく、
「お頭!」と呼ぶ声が聞こえてきた。
「馬鹿!」と一喝した鮫島大学は、
「これこれ何だ、言葉を謹め! 客の居るのを知らないのか!」
「あッ、なるほど、これは粗相……」
 恐縮したらしい声音《こわね》である。
「あの、旦那様に申し上げます」
「何か用か? 用なら云え」
「少し間違いが起こりまして……」
「何を馬鹿な! 間違いとは何だ!」
「へい加賀屋の野良《のら》息子が、贋物《いかさま》のネタを割ったんで……」
「行け!」と怒鳴《どな》ったもののギョッとしたらしく、扇女の顔色を窺った。
「へい!」と云ったが、バタバタバタと、隣部屋の人間は立ち去ったらしい。
 すると、鮫島大学であるが、もうどうにも仕方がない――こう云ったような酸味ある笑いを、チラリと顔へ浮かべたが、弁解するように云い出した。
「何の、実はこういう訳だ。屋敷は広く俺は浪人、そこでわる[#「わる」に傍点]共が集まって来て、手慰みをやっているというものさ。これも交際《つきあい》仕方もない。とはいえ俺は手を出さない。屋敷を貸しているばかりさ。だからよ、何も、この俺をだ、悪漢《わるもの》あつかいにしないがいい。だが」と云うとヒョイと立った。
「どうやら間違いが起こったらしい。黙ってうっちゃっても置かれまい。ちょっくら行ってあつかって[#「あつかって」に傍点]来よう。何さ何さ帰るには及ばぬ。ゆっくり遊んで行くがいい。すぐさま帰って来るからな」
 刀を下げて部屋を出た。
「態ア見やがれ、尻尾を出したよ」
 一人残ったは扇女である。
「繁々《しげしげ》お茶屋へは呼んでくれる、パッパッと御祝儀は切ってくれる。派手にお金を使うので贔屓筋としては大事な人、こうは思っていたものの、万事の様子が腑に落ちず、迂散者らしく思われたが、やっぱりニラミは狂わなかったよ。不頼漢《ならずもの》の頭、賭博宿の主人、どうやらそんな塩梅《あんばい》らしい。……何だか気味が悪いねえ、どれソロソロ帰るとしよう」
 ひょいと立ち上ったが考えた。
「何も好奇《ものずき》、屋敷の様子を、こっそり探ってみてやろう。うまく賭博場でも目つかったら、とんだ面白いことになる」
 それで、ソロリと襖を開けた。





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