国枝史郎「前記天満焼」(10) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(10)

10

 しかし扉が開いてこの屋敷の主人《あるじ》の、鮫島大学《さめじまだいがく》が現われて、無雑作に源三郎の前に進み、源三郎の手をムズと掴み、グッとばかりに引っ立てた瞬間、この場の治まりは付いてしまった。
「汝《うぬ》は誰だ!」と源三郎は怒鳴った。
「拙者かな、拙者かな、さあ何者でござろうやら」
「痛え痛え、手を放せ!」
「ホッ、ホッ、ホッ、お痛いかな」
 三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと、女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、
「これ」とにわかにいかつく[#「いかつく」に傍点]なった。
「二度と来るなよ、こんな場所へ! 人に云うなよ、この場の光景を」
 更に一層凄くなり、
「上海《シャンハイ》仕立ての遊戯室、世間へ明かしたら賽の目だ、無いぞないぞ、汝《うぬ》の命は! 痛えどころか殺すぞよ!」
 グッと睨んだが考えた。
「待てよと……オ、茨木! 茨木!」
「は」と云いながら進み出たのは、いましがた鞘ぐるみ[#「ぐるみ」に傍点]刀を出し、源三郎をからかった[#「からかった」に傍点]、浪人風の男であった。
「たしかこいつは。……この若造は……加賀屋源右衛門の倅《せがれ》だったの?」
「は、さようでございます」
「よし」と云うと有意味に笑った。
「飛び込んで来た、よい囮が! 今まで迂濶《うっか》りしていたよ。……何よりの玉だ、こいつを利用し……」
 呟くと一緒に突き飛ばした。
 突かれて蹣跚《よろめ》いた源三郎は、ドンと壁へぶつかったが、充分の恐怖《おそれ》、充分の怒り、しかし依然として心は夢中で……
「汝は、汝は!」と匕首《あいくち》を揮った。
「ホッ、ホッ」という例の笑いと共に、入身となった鮫島大学は、グッと拳を突き出した。
「ムーッ」とこれは源三郎で、泳ぐような手付きをしたかと思うと、グニャグニャになってぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。
「悪い格好で寝ているよ。大金持の若旦那も、からきし[#「からきし」に傍点]こうなっちゃア見られないなあ」
 懐手《ふところで》をした鮫島大学は、見下ろしてこう呟いたが、
「おい茨木、考えがある。この態《ざま》の悪いお客さんを、じめつく[#「じめつく」に傍点]地下の物置で、大して大事にしなくともいいが、とにかく介抱してやってくれ。……ええとそれから」と鮫島大学は、手下の悪漢《わる》どもを見廻したが、
「あぶれた[#「あぶれた」に傍点]立ン棒じゃアあるまいし、並んで茫然《ぼんやり》立っているなよ。……ちょっと待て待て、オイ茨木! 今夜、宇和島という侍が、例の品物を懐中して、海路大阪から江戸へ着くはず、その宇和島への両様の手宛、もうすっかり出来ているだろうな」
「へい、すっかり出来ています。……最初は正面から斬ってかかり……」
「云うな云うな、出来ておればよい。……松本々々依頼《たのみ》がある」
「へい」と云って顔を出したのは、御留守居風をした男である。
「今考えついた細工だが、お前町方役人となって、加賀屋へ行って主人《あるじ》と逢い……これこれちょっと耳を貸しな」
 囁くのを聞き取った御留守居風の男は、
「こりゃァ名案でございますなあ。……それにしても東三《とうさぶ》め、うまく[#「うまく」に傍点]やればよろしゅうござるが」
「久しい間入り込んでいるあいつ、ヘマなことはしないだろうよ」
 ここで又大学は茨木という男へ、苦笑いしながら話しかけた。
「大阪では宇和島というあの侍に、ひどい目に逢ったのう」
「ミッシリ峰打ちに叩かれて、ぶざまに気絶をいたしました」
「本来はあいつを味方に引き入れ、平野屋から加賀屋へ送る品物――凄く高価な品だというから、いずれは腕利きの人物に持たせ、送り届けるに相違ない。その送人を途中に擁し、宇和島に殺させ奪い取ろうと、そう目論《もくろ》んでの仕事だったのに、あいつの腕が利き過ぎていたので、平野屋の主人に逆に雇われ……」
「あいつが高価の品物を保護して、江戸入りすることになったとは、面白くない運命で」
「面白くない運命といえば、源三郎の運命も……金太々々ちょっと来い」
「へい」と近寄って来た乾兒《こぶん》の一人へ、又大学は囁いた。
「へえ、それでは加賀屋の倅を、加賀屋の金蔵へ送り込むんで」
「うん。……さあさあみんな行け」
 一同の悪漢《わる》どもが立ち去って、一人になると大学は榻の一つへ腰かけた。
「この考えは素晴らしいぞ」
 独り言を云いながら考え出した。
 すると、その時扉をあけて、スッと入って来た女があった。
「大変な芝居をなさいましたねえ」
 女役者の扇女《せんじょ》である。
「ほほうお前か、見ていたか。舞台の芝居より凄かろう」
「血糊と異って流されたは、本当の血でございましたからね」
「どうだ扇女、物は相談、凄味に惚れちゃアくれまいかな」
「そうですねえ、考えましょうよ、一つじっくり[#「じっくり」に傍点]と考えましょうよ」
「そのじっくり[#「じっくり」に傍点]だが、気に入らないな。それにさ恋というものは、考えてやらかすものではない。と、こんなように思うがの。大概考えている中に、恋というものは逃げてしまう」
「逃げてしまうような恋でしたら、やらない方が可《よ》いでしょう」
「これが秘決だ! 無分別! どうだこいつでやらかそう!」
「ところが妾《わたし》は天邪鬼《あまのじゃく》で、無分別が恋の秘決なら、思慮熟慮で行きましょう」
「理詰めで行こうとこういうのか?」
「そうですねえ、そうでしょうよ」
「オイ」と大学猛くなった。
「その理詰めだが嵩ずるとな……」
「どうなろうと仰有《おっしゃ》るので?」
「こうなるのだ! こうなるのだ!」
 ノッと立ち上った鮫島大学は、巨大な鳥が小雀を、翼の下へ抱え込むように、扇女を両腕へかい込もうとした。
 だがその途端に一方の壁の、真中《まんなか》の辺りへ穴が開き、一人の女が現われた。
 隣部屋へ通う隠し戸を開け、手に阿片の吹管を持ち、支那の乙女の扮装《すがた》をした、若い女が現われたのである。
「阿片をお吸いなさいまし。結構な飲物でございます」
 そう云いながらその女は、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出た。
「奇麗な夢が見られます。見ることの出来ない美しい、世界を見ることも出来ましょう。聞くことの出来ない美しい、音楽を聞くことも出来ましょう。石榴《ざくろ》石から花が咲いて、その花の芯は茴香《ういきょう》色で、そうして花弁は瑪瑙《めのう》色で、でもその茎は蛋白石の、寂しい色をして居ります。そういう花も見られましょう。……そこは異国でございました。そこは上海《シャンハイ》でございました。その裏町でございました。一人の女が誘拐《かどわか》され、密房の中へ閉じ籠められ、眠らされたのでございます。黒檀の寝台には狼の毛皮。でその毛皮の荒い毛が、体の肉を刺しました。菱形の窓から熟んだ月が、ショボショボ覗いて居りました。猫目石のような月の眼が、女の胸を探りました。とどうでしょうお月様の眼が、潰れてしまったではございませんか。胸の辺りに刳られた穴が、龕のように出来ていたからです。それを見たからでございます。それで吃驚《びっくり》してお月様の眼が、潰れてしまったのでございます。……誰が刳ったのでございましょう? 青々と光るものがある! 鉛で作った大形の、偃月刀《えんげつとう》でございます。柄に鏤《ちりば》めたは月長石と、雲母石とでございました。それで刳ったのでございます。可哀そうな可哀そうな女の胸を! でもその間その女は、歌をうたって居りました。大変いい声でございました。だが本当に美しいことは、その歌声が熱のために、凍ってしまったことでございます。で虹色の一本の、棒になったのでございます。……阿片をお喫みなさいまし、凍った歌声の虹の棒を、手に取ることが出来ましょう。だが御用心なさりませ、今度は手の熱に冷やされて、棒が融けるでございましょう。それはまだまだよろしいので。ではその時歌声が、こう響いたらどうなさいます。『誰も彼も生きている死骸だよ』……よこせ! よこせ! よこせ! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 寄って集《たか》ってたくさんの人が、虐むからでございます。そこで、生きながら誰も彼も、死骸になるのでございます。……死骸はいやらしゅうございます。見ない方がよろしゅうございます。死骸を見まいと思ったら、阿片をお喫いなさいまし。……お前は誰だい!」
 とその女は、よろめく足を踏み締めると、扇女の前へ突立った。
 支那風に髪を分けており、髪に包まれて顔があり、その顔は仮面と云った方が、似合うように思われた。と云うのは支那製の白粉《おしろい》で、部厚く一面に、塗りくろめ、書き眉をし、口紅をつけ、頬紅を注しているからである。特色的なのは眼であろう。眼窩が深く落ち窪み、暗い深い穴のように見える。
 楔《くさび》形に削ったのだろうか? こう思われる程ゲッソリと、頬が頤へかけて落ちている。
 上着の模様は唐草で、襟と袖とに銀の糸で、細く刺繍《ぬいとり》を施してある。紫色の袴の裾を洩れ、天鵞絨《ビロード》に銀糸で鳥獣を繍った、小さな沓《くつ》も見えている。
「奇麗な御婦人、別嬪さん!」
 云いながら睨むように扇女を見た。それから大学へ眼をやった。
「そうかそうか、恋仲か! 恋をしようとしているのか! だがねえ」とまたもや扇女を見た。
「用心が大事でございますよ。迂闊に恋などなさいますな。凄いお方でございます。この大学という方は! もし迂闊にこの人と恋仲などになりましたら、妾《わたし》のようにされましょう。廃人にね! 廃人にね! ……」
 ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと歩き出した。針金細工の人形かしら? あまりにも痩せているではないか! そうしてヒョロヒョロと歩く毎に、どうしてあんなにも顫えるのだろう?
 燈籠《とうろう》の火に照らされて、阿片の吹管が反射する。それを握っている手の指が、あたかも鈎のように曲がっている。
 と、だる[#「だる」に傍点]そうに振り返り、ノロノロと片手を上げ、それで大学を指さしたが、
「ね、妾《わたし》の恋男さ! そうさ妾の大学さんさ! 取っちゃア不可《いけ》ないよ、この人をね!」
 それから自分を指さした。
「教えてあげよう、妾の名をね! 『阿片食い』のお妻だよ!」
 またヒョロヒョロと歩き出し、部屋をグルグル廻り出した。

 同じこの夜のことである。
「一体どうしたのでございましょう、こんな夜が更けたのに、兄さんがお帰りにならないとは」
 こういう娘の声がした。清浄であどけない[#「あどけない」に傍点]その中に、憂いを含んだ声である。
 すぐ老人の声がした。
「源三郎にも困ったものだ。悪い友だちが出来たらしい。碌でもない所へ行くらしい」
 ここは浅草の蔵前通りの、富豪加賀屋の奥座敷である。
 源三郎の父の源右衛門と、源三郎の妹のお品とが、源三郎の身の上を案じ、寝もせず噂をしているのであった。
 するとその時足音がして、襖の陰で止まったが、
「大旦那様、大旦那様」
 こう呼ぶ不安そうな声がした。
「長吉どんかい、何か用かい」
「心配のことが出来ました」
「入っておいでな、どんな事だい?」
 襖を開けて顔を出したのは、長吉という手代であった。
「町役人の方がおいでになり、お目にかかりたいと申しております」

 ところが同じこの夜のこと、旅装凜々しい一人の武士が、端艇《はしけ》で海上を親船から、霊岸島まで駛《はし》らせて来た。
「御苦労」と水夫《かこ》へ挨拶をして岸へ上るとその侍は、あたかも人目を忍ぶように、佐賀町河岸までやって来た。
 すると家陰から数人の人影が、タラタラと一勢に現われたが、旅侍を取り巻くや、四方からドッと切り込んだ。
「うむ、出たか! 待っていたようなものだ」
 嘯《うそぶ》くように云ったかと思うと、抜打ちに一人を切り斃し、
「すなわち人殺《ひとごろし》受負業《うけおいぎょう》! アッハッハッハッ、一人切ったぞ」
 その時、
「引け」という声がした。……途端に刺客の人影は、八方に別れて散ってしまった。
「おかしいなあ」と佇んだまま、旅侍は呟いたが、
「はてな?」ともう[#「もう」に傍点]一度呟いた。
 というのは行手、眼の先へ、加賀屋と記された提燈が、幾個《いくつ》か現われたからである。
「宇和島様でございましょうな。加賀屋からのお迎えでございます」
 手代風の一人が進み寄ったが、こう旅侍へ声をかけ、さも丁寧に腰をかがめた。

 ところがこれも同じ晩に、もう一つ奇怪な出来事が起こった。
 一人の立派な老人が、それは加賀屋源右衛門であるが、手燭をかかげて土蔵の中を、神経質に見廻していた。土蔵の中に積まれてあるのは、金鋲を打った千両箱で、それも十や二十ではない。渦高いまでに積まれてある。その一つの前へ来た時である。
「あッ」と老人は声を上げた。
 と、その声が呼んだかのように、土蔵の口へ現われたのは、顔に醜い薄痘痕《あばた》のある、蔵番らしい男であったが、手に匕首《あいくち》を握っている。じっと狙ったは老人の首で、ジリジリジリジリと擦り寄って行った。




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