国枝史郎「沙漠の古都」(08) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(08)

        八

[#天から4字下げ](以下は支那青年張教仁の備忘録の抜萃である)
 私達はオムスクで一泊した。翌朝早くホテルを出てイルチッシ河の河岸へ出た。流程二千三百哩《マイル》、広々と流れる大河の態《さま》は大陸的とでも云うのであろう。一行は汽船へ乗り込んだ。セミパラチンスクまで行くのである。両岸はキルギスの大平原で煙りの上がるその辺には彼らの部落があるのであろう。セミパラチンスクで二泊した。これからは陸路を行くのである。塔爾巴哈《タルパカ》台までの行程にはただ禿げ山があるばかりだ。一望百里の高原は波状をなしてつづいている。ところどころに湖水があって湖水の水は凍っていた。馬と駱駝《ラクダ》と荷車の列――私達の一行はその高原をどこまでもどこまでも行くのであった。塔爾巴哈《タルパカ》台からは支那領で、それから先はどことなく沙漠の様子を呈していた。ノガイ人種を幾人か頼み彼らに駱駝《ラクダ》をあつかわせ、烏魯木斎《ウルマチ》指して進んで行った。烏魯木斎《ウルマチ》の次が土魯番《トロバン》で私達はウルマチとトロバンとで完全に旅行の用意をした。悉皆《しっかい》馬を売り払い駱駝を無数に買い込んだ。氷の塊を袋に詰め充分に食料を用意した。探検用の専門の器具は木箱に入れて厳封した。ノガイ族キルギス族土耳古《トルコ》族、それらの幾人かをまた雇った。同勢すべて三十人。いよいよ沙漠へ打ち入った。
 幾日も幾日も一行は沙漠を渡って行く。……

 もうここで十日野営を張る。いつまで野営をするのだろう。いつまでも野営をするがいい。私はそれを希望する。私はこの地を離れまい。美しい謎の土耳古《トルコ》美人を自分のものにするまでは断じて私は離れまい。
 阿勒騰塔格《アルチンタツク》の大山脈と庫魯克格《クルツクタツク》の小山脈とに南北を劃《かぎ》られた羅布《ロブ》の沙漠のちょうどこの辺は底らしい。どっちを見ても茫々とした流れる砂の海ばかりだ。遙かに見える丘陵もやっぱり砂の丘であって一夜の暴風で出来たものだ。ところどころに沼がある。しかしその水は飲めなかった。多量に塩分を含んでいる。立ち枯れの林が一、二ヵ所白骨のように立っていて野生の羊がその周囲《まわり》を咳をしながら歩いている。遠くの砂丘で啼いている獣はやっぱり野生の駱駝である。私達を恐れているのだろう。夜な夜な無数に群をなして草原狼が現われたが、火光に恐れて近寄らない。一発銃を撃ちはなすと慌てて姿を隠すのであった。
 河の流れも幾筋かあった。しかしその水は飲めなかった。やっぱり塩を含んでいる。これらの河や沼や池は、全く不思議な化物で絶えずその位置が変るのであった。動く湖、移動《うつ》る沼、姿を消してしまう河や池――全くこの辺のすべてのものは神秘と奇怪とに充ちていた。ある夜突然空の上から微妙な音楽が聞こえて来た。多数の男女の笑う声も。しかしもちろん姿は見えなかった。音楽も風のように消滅した。そうかと思うとまたある晩は氷塊と駱駝とを盗まれた。氷塊も駱駝も私達にとっては命と同じに大事なものだ。みんなはすっかり恐怖した。そうして厳しく警戒した。またある晩は木片の面へ不思議な文字を書きつけたものが天幕《テント》の中へ投げ込まれた。博言博士はそれを見ると顔色を変えて説明した。
「これがすなわち回鶻《ウイグル》語じゃ。誰がいったい書いたんだろう。まだ墨痕は新らしいが」それからその語を翻訳した。
「――沙漠の霊を穢《けが》すなかれ。汝らの最も尊敬する貢物を捧げて立ち去らざれば、沙漠の霊汝らを埋ずむべし――」
 突然ラシイヌが笑い出した。
「これで正体がほぼわかった! もう心配をする必要はない。黙って放抛《うっちゃ》っておくんだね。そのうちに僕が悪戯者《いたずらもの》の沙漠の霊を捉らまえてやる」
 しかし博士のマハラヤナは印度《インド》人の常として迷信深く不安そうにしばらくの間考えていたが、
「あらゆる物には霊魂がある。沙漠にも霊魂はある筈だ――そこで思うにこの霊は数千年のその昔にこの地へ国を立てていた楼蘭という土耳古《トルコ》族の家国の霊かも知れません。もしそうなら祀らねばならん」
「何をいったい祀るんです」ラシイヌは益※[#二の字点、1-2-22]笑いながら、「決してご心配には及びません。まあご覧なさいその霊めをきっと捉えて見せますから」
 自信の籠もったこの言葉はそれまで不安に襲われていた土人達の心を一掃した。

 回鶻《ウイグル》語で記した木片が天幕《テント》へ投げ込まれたそれ以前から、誰が入れるのか解らないが、私の服のポケットへは女文字で記した仏蘭西《フランス》語の紙が一再ならずはいっていた。最初の紙にはこう書いてあった。
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 同じ東洋人なる支那の貴公子よ、妾《わらわ》を固く信じ給え、西班牙《スペイン》の愚人の守りおる彼の水晶球を奪い取り妾の住居へ来たりたまえ。
[#ここで字下げ終わり]
 第二の手紙にはこう書いてあった。
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 早く決心なさりませ。奪い取った球を手に握って沙漠を東北へお逃げなさい。里程《みちのり》にして約二里半を足に任せてお逃げなさい。そうしたら村落《むら》に行きつくでしょう。沙漠に立っている羅布《ロブ》人の村! 人口は約二百人、飲まれる泉が湧いています。青々と常磐木《ときわぎ》が茂っています。沼には魚が住んでいて葦《あし》の間には水禽《みずとり》がいます。住民はみんなよい人です。音楽と盗みとが上手です。沢山の伝説を持っています。彼らの中の頭領は七十に近い老人です。綽名《あだな》を沙漠の老人と云って幾個《いくつ》かの伝説と幾個かの予言と幾個かの迷信とに養われている魔法使いのような翁《おきな》です。住民の家は灰色で土で造ってありますけれど老人の家だけは木造りでしかも真紅に塗られています。真紅な家へいらっしゃい。そこに私がいるのです。
 可愛らしい支那の貴公子よ。妾《わたし》の言葉を信じなさい。東洋人同志ではありませんか。
[#ここで字下げ終わり]
 第三の手紙は昨夜来た。次のような文句が記してあった。
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 私はあなたに命じます! 今度こそ実行なさいましと。しかしあなたはこのわたしをきっと疑っておいででしょう。あなたの疑いを晴らすためわたしの素性を申し上げましょう。私は土耳古《トルコ》の将軍でピナンという者の二番目の娘のエルビーという女です。私は宮廷で育ちました。皇后の侍女頭をしていました。ある夜新しい命婦《めいぶ》のために皇帝は夜会をひらかれました。諸国から献ぜられた五人の命婦はいずれも憂欝な顔をして席に控えておりました。五人のうちで一番若い――十七位の波斯《ペルシャ》乙女はわけても悲しそうな様子をして眼を泣き脹らしておりましたので妾の注意をひきました。宴会が終えて命婦達が各自の椒房《ハレム》へ帰った時、私は皇后の許しを受けて命婦達を慰問に行きました。例の十七の可哀そうな命婦の華麗な椒房《ハレム》へ行って見ると、可憐の乙女は寝台の上でシクシク泣いておりました。私は侍女を遠ざけてから乙女に慰めの言葉をかけてその身の上を尋ねました。乙女の言葉によりますと、乙女は波斯《ペルシャ》でも由緒正しい絹商人《あきんど》の愛娘で、その時からちょうど一月前、父母に連れられてコンスタンチノーブルへ観光に来たのだそうでございます。ところが白昼誘拐《かどわ》かされ朝廷の大官に売られたのをその大官がさらにそれを皇帝に献じたということです。娘は私に云うのでした。「どうぞここから逃げられるようにお取り計らいくださいまし。ここに手箱がございます。幾代前からか知りませんが私の家に伝わった鉄の手箱でございまして中には解らない昔の文字で何かを記した羊皮紙があると父母が申しておりました。そしてこの箱さえ持っていればどんな危難でも遁がれられると云って幼少《ちいさい》時から肌身放さず持たせられていたのでございますが、これをあなたに差し上げますからどうぞお助けくださいまし」と。私は可哀そうになりました。で私は娘に云いました。「私が助けてあげますからちっとも心配はいりません」と。そして私はその翌日乙女を私の馬車に乗せて堂々と王宮からつれ出しました。幸い誰にも咎められず英国大使館へ馬車を着け大使に乙女を任せて置いて妾は王宮へ取って返して乙女から貰った鉄の手箱を何気なく開けて見ますると、古代回鶻《ウイグル》語で記された羅布《ロブ》の沙漠の秘密の謎があらわれて来たではありませんか。そこで私はその箱を握ってすぐに宮中を抜け出しました。皇帝の命婦を逃がしてやった罪の発覚を恐れたよりも、羊皮紙に書かれた秘密の謎のその価値のあまりに大きいのに驚いたからでございます。それから回鶻《ウイグル》語の暗示に任かせ沙漠へ来たというものです。そして私はこの沙漠の雌《めん》の水晶球を手に入れました。ですからもしももう一つの雄《おん》の水晶球を手に入れましたら二つの球を携《たずさ》えて、羊皮紙に記してあるように私達の村から十里へだてたロブノール湖へ船を浮かべて地下に建てられた都会へまで流れて行くことが出来るのです。そしてその都会へ着いた時二つの球は奇蹟をあらわし巨億の宝の隠れ場所を私達に示すことになっております。
 同じ東洋人なる支那の貴公子よ! 雄《おん》の珠を奪っていらっしゃい。妾と土耳古《トルコ》の民族の最初の祖先の回鶻《ウイグル》人が国家の亡びるその際にひそかに隠したそれらの富を一緒にさがそうではありませんか。雌《めん》の玉の持ち主である沙漠の「老人」が、私達のために湖水まで案内をするそうです。
 あなたは難解な回鶻《ウイグル》語を――羊皮紙に書いてあった回鶻《ウイグル》語を、どうして妾が読み得たかきっと不思議に思われるでしょう、がそれには理由がございます。今も手紙に書きました通り回鶻《ウイグル》人は土耳古《トルコ》民族の最初の祖先なのでございます。土耳古《トルコ》宮廷にいるほどの者は必ず回鶻《ウイグル》語の初歩ぐらいは大概読めるのでございます。羊皮紙に書かれたあの文字はきわめて簡単でございました。
[#ここで字下げ終わり]

 三回目の密書を読んだ時私はようやく決心した。球を盗もうと決心した。汽車中の出来事があって以来ラシイヌ達はこの私を極度にまでも信用して球の入れてある鉄の箱をついには私に預けさえもした。つまり彼らはこの私を同志の一人に加えたのであった。球を奪うことは容易であった。一夜、満月の明るい晩ついに私は目的をとげ、土耳古《トルコ》美人の住んでいる緑地《オアシス》へまで落ち延びた。常磐木、泉、土人の小屋、他には魚が泳いでいるし木々には小鳥が啼いている。緑地は住みよさそうに思われた。常磐木の間に祠《ほこら》がある。石の狛犬《こまいぬ》がその社頭に二匹向かい合って立っている。「沙漠の老人」と土耳古《トルコ》美人とは私を祠へつれて行って私に拝めと云った。無宗教の私は云われるままに祠に向かって三拝した。
 と老人が私に云った。「若者よ、これは吾らの神じゃ。吾ら羅布《ロブ》人の神なのじゃ。そして羅布《ロブ》人は回鶻《ウイグル》人じゃ。数千年の昔から今日まで他人種の血液を混じえずに純粋に残った回鶻《ウイグル》人は吾ら羅布《ロブ》人ばかりなのじゃ。吾ら純粋の羅布《ロブ》人はここの緑地《オアシス》に集まって吾らの唯一の守り本尊アラなる神を祠に祭りアラ大神の使者の燐光を纒った狛犬を神の権化と懼《おそ》れ恭い、数千年住んで来た。しかるに今から数年前西班牙《スペイン》人の探検隊が羅布《ロブ》の沙漠へ襲って来て神の祠を破壊して経文の一部と羊皮紙と箱に納めた雄の球とを何処《いずこ》ともなく奪い去った。吾らの怒りは頂点に達し神に復讐の誓いをして、西班牙《スペイン》人の探検隊の頭目の行衛を探索した。そして計らずもその頭目が西班牙《スペイン》の首府のマドリッドの市長の要職にいると聞き吾らは雀躍して喜んだ。そこで一隊の暗殺団をマドリッドへ向けて送ってやった。そして巧妙なる手段をもって最初に経文を取り返した。そしてその次には他の一団が――それも沙漠から送ったのだが――その二回目の暗殺団が市長の胸へ短刀の切尖《きっさき》を深く突きさした。市長はしかし死ななんだ。死なないばかりか決心して、ラシイヌなどという私立探偵へ水晶の球と羊皮紙を託し沙漠の秘密を探らせようと探検隊を組織させた。――ラシイヌ達の一行はこの二回目の暗殺を「第二獣人事件」と云っている――探検隊を組織したという噂を知ったので、途中に迎えて水晶球を奪い取ろうと思いつきエルビーを汽車まで向かわせたのじゃ。お前の邪魔でこの企ては到頭失敗したけれど、邪魔をしたお前が味方となり、白人達の奪い取った水晶球をまた奪って緑地《オアシス》へもたらせてくれたからには、恩こそあれ恨みはない……ところでお前は支那人だのにどういう理由《わけ》で白人達の探検隊に加わったのか?」
 老人は不思議そうに私を見た。それで私は私自身のこれまでの経歴を物語った。老人は黙って聞いていたが、
「お前は回鶻《ウイグル》語が読めるのか? 袁世凱《えんせいがい》のくれたという手箱の中の羊皮紙をどうしてお前は読んだのじゃ?」
「鉄の手箱には原文と一緒に訳文がはいっておりました。袁世凱の勢力で回鶻《ウイグル》語の学者を呼びよせてひそかに訳させたのかもしれません」
 老人はなるほどと頷いて、それっきり何んにも云わなかった。

 翌日私達は家を出た。十里の道を二日かかってロブノール湖まで歩いて行った。既に土人が用意して置いた獣皮の小船が湖の岸に音もなく静かに浮いていた。三人はそれへ飛び乗った。巧みに老人が櫂《かい》を漕ぐ。
 老人は漕ぎながら話し出した。老人の言葉をエルビーが仏蘭西《フランス》語に訳して話してくれる。私は傾聴するばかりだ。
「伝説によれば」と老人は云った。「数千年の昔において今度の事件は予言されていた。水晶球の雄《おん》の球は白人によって奪い去られ黄色人によって取り返さるべしと。そしてもう一つ伝説によれば一旦白人に渡った球は後に残っている雌《めん》の球と共にロブノール湖の水で洗浄されると。だから球を二つとも箱に入れてここへ持って来た。もう一つ最後の伝説によると、失われた球を取り返した人は、アラ大神の祝福を受けて地下に尚生きて働いている回鶻《ウイグル》人を見ることが出来、彼らの都会へ行くことが出来、そして都会へ行きついた時雌雄の球の奇蹟によって古代回鶻《ウイグル》人の埋没した巨財の所在《ありか》を知ることが出来ると。で今吾らは伝説通りロブノール湖に浮いている。奇蹟があらわれるに違いない」
 老人は厳かに云い放すとじっと湖水を眺めやった。
 冬の真昼の陽に輝いて、周囲一里ほどの湖は波穏かに澄んでいる。空を行く雲も鳥影も鏡のように映って見え、日光を吸って水の中は黄金のように輝いている。
 老人は二つの箱を出して、湖水の水を注ぎかけた。そして大神を讃え出した。
「アラ、アラ、イル……」と熱心に。
 動くともない湖水の水がその時渦を巻き出した。渦の中心に船がある。船が急速に廻り出した。と、砂山の一方の岸が見る見る崩れてその跡へ洞窟のような穴があいた。水がその洞へ流れ込む。いつしか船も流れ込んだ。忽然と四辺《あたり》が暗くなり一筋の陽の光も見えなくなった。エルビーが私に縋りつく。老人は闇の中で祈っている。
「アラ、アラ、アラ、アラ、アラ、アラ、イル……」
 船はずんずん流れて行く、地下の水道を矢のように……(備忘録下略)



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