国枝史郎「前記天満焼」(13) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(13)

13

 立派な旅籠屋が立っていた。
 すなわち目的の柏屋で、下女が店先で水を撒いてい、番頭が小僧を追い廻している。
「御免下さい」と声をかけ、丁寧松は帳場の前へ立った。
「宇和島様おいででございましょうか」
「へい」と云ったは番頭であった。ジロジロ松吉を見廻したのは、品定めをしたのに相違ない。
「ええどちら[#「どちら」に傍点]様でございますかな?」
 居るとも居ないとも返事をせず、相手の身分を訊いたのは、大事を執《と》ったためなのだろう。
 鼻が平らで眉が下っていて、人のよさそうな人相ではあったが、眼に一脈の凄味がある。大きな旅籠屋の番頭なのである。人が良いばかりでは勤まらない、食えない代物には相違あるまい。
「加賀屋の者でございますがね」
 そこは松吉岡引である。加賀屋を活用したのである。
「おや左様でございましたか。これは失礼をいたしました。へいへい確かに宇和島様には、昨晩《ゆうべ》からお宿まりでございますよ」
 ――加賀屋から来たと聞いたので、番頭は安心をしたらしい。
「ちょっくらお目通りいたしたいもので」
「ちょっとお待ちを」と云いながら、番頭は女中へ頤をしゃくった。取次げという意味なのだろう。
 すぐに女中は小走って行ったが、どうしたものか帰って来ない。かなりの時間を取ってから、もっけ[#「もっけ」に傍点]の顔をして飛び帰って来たが、その返事たるや変なものであった。
「どこにもおいででございません」
「冗談お云いな、馬鹿なことを」
 番頭の言葉におっ[#「おっ」に傍点]冠せ、お杉という女中は云い張った。
「いえ本当なのでございますよ。どこにもおいでなさいませんので。お部屋にも居られず厠にも居られず、もしやと思って裏庭の方まで、お探ししたのでございますが、やっぱりお姿は見えませんでした。それで、念のために一部屋一部屋、お尋ねしたのではございますが……」
「お姿が見えないというのだね」
「はい、そうなのでございますよ」
「ふふん」と云ったが怪訝そうである。
 番頭は松吉の顔を見た。
「いやそうかも知れませんねえ」
 丁寧松は驚かなかった。
「それが本当かも知れませんねえ。実はね」というと丁寧松は、丁寧の調子を砕いてしまった。
「加賀屋の者じゃアないのだよ。連雀町の松吉なのさ。ちょっと見たいね、部屋の様子を」
「へえ、それじゃア親分さんで」
 番頭はすっかり顫え上った。
「うん」と云ったがズイと上る。
「どうぞこちらへ……偉いことになったぞ」
 不安に脅えた番頭を睨み、奥へ通った丁寧松は、またも丁寧な調子になった。
「ねえ番頭さん番頭さん、ビクビクなさるには及びませんよ。貴郎《あなた》が人殺しをしたんじゃアなし、お咎めを受けるはずはない。だが」と云うときつく[#「きつく」に傍点]なった。
「嘘を云っちゃア不可《いけ》ねえぜ!」
 丁寧松ではなくなったのである。
 胆を潰したのは番頭で、
「それでは昨夜のお侍様は、兇状持なのでございましょうか?」
「つまりそいつ[#「そいつ」に傍点]を調べに来たのさ。それで出張って来たってやつさ」
 だがまたもや丁寧になった。
「立派な造作でございますねえ」
 云いながら四辺《あたり》を見廻したが、立派な造作を見たのではなく、間取りの具合を見たのらしい。
 真中《まんなか》に廊下が通っていて、左右に座敷が並んでいる。
 その一画を通り過ぎると、広大な裏庭になっていて、離れ座敷に相違ない、三間造りの建物があり、母家と渡り縁で繋がれていた。
 その建物の中の部屋の、襖の前まで来た時である。
「このお座敷なのでございますよ」
 こう云って番頭は辞儀をしてみせた。





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