国枝史郎「前記天満焼」(15) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(15)

15

 変った建物では無かったけれど、陰森たる建物には相違なく、縁が四方を取り巻いてい、雨戸がビッシリと閉ざされていた。縁も古ければ雨戸も古い。しかし用木は頑丈で、それが時代を食《は》んでいる為か、鉄のような色を呈してい、瓦家根《やね》が深く垂れ下り、その家屋も黒く錆ていた。だから巨大な蝙蝠が、翼をひろげているようである。何処からも日の目が射して来ない。繁った木立が四方を鎧い、陽を遮っているからだろう。とは云え家根の一面だけが、陽を受けて明るく燃えている。それで、そこだけが昼であり、その他の所は宵闇であると、こういうことが出来そうである。つまりそんなにも建物と建物の周囲《まわり》は陰気なのであった。
 周囲の繁った木立によって、一切外界と交渉を断ち、一劃をなした別世界に、一種威嚇的な空気を纏い、物云わず立っている気味の悪い存在! それが離れ座敷の姿であった。
 だからその前に立った人は、そういう空気に圧迫され、逃げ出してしまうに相違ない。
 にも拘らず松吉は、怖くはないよと云いたそうに、胸の辺りで腕を組み、大工が普請でも見るように、家の周囲を廻りながら、仰向いて見たり俯向いて見たり、一向暢気そうに眺め出した。
「今朝方箒目《ほうきめ》をあてたと見え、地面も縁の上も平《なら》されている」
 口の中での呟きである。
「おや木の枝が折れてるぜ」
 たしかに一所木の枝が、無理に乱暴に折り取られている。
「腰でもかけて休もうかい」
 ――縁へ腰をかけた丁寧松は、後脳を雨戸へ押し付けて、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]空を眺めたが、どうやら本当はぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と、空を眺めているのではなく、何かを聞き澄ましているのらしい。
「いい天気だなあ、鳥が啼いていらあ」
 梢で雀が啼いている。
「宇和島というお侍、高価な物でも持っているのか、人に怨みでも受けているのか、とにかく何者かに狙われているらしい。だから大勢の者に切りかけられたり、贋加賀屋の手代どもに、こんな旅籠へ連れ込まれたり……さあその贋加賀屋の手代の一人が、宇和島という侍の隣り部屋へ、泊まり込んだということだが、そうして今日の明方早く、立去って行ったということだが、こいつがどうにも眉唾物だて」
 ――番頭の言葉と婢女《はしため》の言葉、それを綜合して丁寧松は、推理と検討とに耽りだした。
 その間も松吉は縁の上などを、こっそり掌《てのひら》で撫でまわした。
「縁の上にひどく砂があるなあ。縁近くの庭で取っ組み合いでもしたら、縁の上へ砂ぐらい刎ね上るだろうよ。……ところで宇和島という侍だが、この旅籠から消えたとは何ということだ。……二から一引く一残る! これが十呂盤《そろばん》の定法だが、この事件はそうでねえ、二から一引く皆な消えっちゃった! 侍も手代もきえっちゃった。……こんな解《わか》らぬ話ってねえ。……ナーニこいつアこうなるのさ。……宇和島というお侍さん、身の危険を感じたので、贋手代を気絶でもさせて、そいつの衣裳をひん[#「ひん」に傍点]剥いて、自分の衣裳の上へ着て――着ふくれ[#「ふくれ」に傍点]ていたっていうことだからな――手代に化けてこの旅籠から、脱出して行ったというものさ。……行燈の火が消えたという。案内の女中に化けた姿を、感付かれまいために宇和島という武士が、行燈の側を通る時、袂でも振って消したのさ。……さて疑問として残るのは、衣裳を剥がれた贋手代の、可哀そうな身柄がどこにあるかってことさ……」
 この時開けずの間の建物の中から、物の気勢《けはい》が聞こえてきた。
「いつからともなく柏屋の庭に、開けずの間という建物があって、一切人を内へ入れず、一切人を寄せ付けず、厳《おごそか》に鎮座ましますと、世間の噂に立つようになったが、どう考えてもおかしいよ」
 口の中での呟きである。
「どだい建物というものは、人が住むために建てるものだ。人の住めない建物なら、さっさと壊すがいいじゃアないか。そんな建物を建てて置く! どうでも二二ンが四じゃアない」
 胸の中で珠算をやり出した。
「もっとも」と、これも口の中である。
「お宮と云ったような建物もある。だがもしそいつ[#「そいつ」に傍点]がお宮なら、神様が住んでいなけりゃアならない。……となすとここの建物にも、神様が住んでいるのかな」
 頭が一方へ傾いて行く。ピッタリ片耳が戸へあたる。
「うむ!」と突然丁寧松は、呻《うめき》の声を洩らしたが、
「やりゃアがったな!」と飛び上った。
「ヤイ!」と怒鳴ったが鋭い声だ。
「殺生な真似をしやアがるな! 丁寧松だ! 見現わしたぞ!」
 だがその次の瞬間には、非常な危険を直感した、猟り立てられた獣のように、庭を駆け抜け、主母《おもや》を駆け抜け、往来へ飛び出してしまったのである。
 すると、その時音も立てず、離れ座敷の雨戸が開いたが、その隙間から見えたのは、一人の女の姿であった。身に行衣を纏ってい、左手に御弊《ごへい》を握っている。しかし右手に下げているのは、血に塗られた短刀であった。御弊に仕込まれた懐刀らしい。美しいことも美しいが、その凄さは二倍と云えよう!
 髪を頸《うなじ》に束ねている。それで額が三角形に見える。ぼうぼうと[#「ぼうぼうと」に傍点]毛ば立った太い眉、耳まで続いていないだろうか? そう思わなければならない程、延々と長く引かれている。だがその下に凝然と、見据えられた眼を見た人は、ああこの女は狂信者だ! こう思わずにはいられないだろう。
 女は、全身を現わしたのではない。二尺余り開いた戸の隙から、半身を覗かせているのであった。
「市郎右衛門! 市郎右衛門!」
 その女が呼んだのである。喰い縛ったような声である。
 すると、木立を押し分けて、一人の男が現われた。他でもない番頭であった。だが、相好が変っている。キョトキョト恐れおどついて[#「おどついて」に傍点]いた、先刻《さっき》までの番頭ではないのであった。
「お久美様!」と土下座をした。
「かようなことになろうとは……迂闊千万にございました」
「今は云わぬよ! 何にも云わぬよ! ……しかし生かしては置かれない! ……今日中に命を取《と》るがいい! ……手が入ったら一大事だ」
「手配り致すでございましょう。……それに致しても血刀は?」
「意外だったよ、妾《わたし》にしてからが! ……裸体《はだか》に剥かれた人間が……」
「お部屋にいたのでございますか?」
「で、切ったのだ! 剖《あば》いたからの」
「では宇和島と宣った武士で?」
 市郎右衛門はギョッとしたらしい。
「妾は知らぬよ。……切っただけだよ。……手配りをおし! 一刻も早く!」
「はい」と云うと走り去った。
 なお、女は立っている。
「あいつのお蔭だ! ……大塩中斎《おおしおちゅうさい》! ……お気の毒な貢《みつぎ》様! ……妾までこんな目に逢っている。……」
 血刀が鈍く光っている。
「一世の碩学[#「碩学」は底本では「硯学」]、貢の巫女……それから伝わったこの教法……滅ぼしてなろうか! 滅ぼしてなろうか!」
 柏屋を飛び出た岡引の松吉は、この頃往来を走っていた。




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