国枝史郎「前記天満焼」(16) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(16)

16

 だが、十間とは走らなかった。柏屋と斜めに向かい合い、表門の一所に桐の木を持ち、黒板塀に蔽われた、宏大な屋敷が立っていたが、ちょうどそこまで走って来た時、一つの事件にぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]てしまった。
 と云うのは二階の障子が開き、武士の姿が現われたが、松吉を目掛けて腕を振り、同時に障子を閉じたのである。
 昼の日を貫き一閃したは、投げられた小柄に相違ない。同時にピシッと音がした。
 すなわち岡引の松吉が、走りながらの神妙の手練、懐中の十手を引き抜くと、見事に払って捨たのである。
「うむ、やったな! 鮫島大学!」
 叫んだ時には数間のかなたを、岡引の松吉は走っていた。
 だがその行手に露地があり、そこへ駈け込んだ一刹那、またもや意外な出来事に逢った。
「無双の早業、素晴らしい手並、すっかり見ていた、立派であったぞ!」
 深編笠に黒紋付、仙台平の袴を穿き、きらびやかの大小を尋常に帯び、扇を握った若侍に、こう言葉を掛けられたのである。衣裳の紋は轡《くつわ》である。
「え」と云った岡引の松吉は、足を止めざるを得なかった。
「お褒めのお言葉、有難いことで。……が、全体、貴郎《あなた》様は?」
「拙者か」と云ったが歩き出した。
「柏屋の秘密を知って居るものだ」
「では」と云うと睨むように見た。
「宇和島様ではございませんかね?」
 一種の直感で感じたのらしい。
 それには返事をしなかったが、
「見受けるところ目明しだの。……柏屋から飛び出したあわただしい気振り、それもすっかり見届けた。……そこで、約束をしてもよい。お前の力になるかもしれない。この俺がな、都合次第。……今日はこれだけ。別れよう」
 露地から出たが人混《ひとごみ》にまじり、間もなく姿が見えなくなった。
「おかしいなあ、何者だろう? ……宇和島という武士に相違ない。よし来た、一番、つけて[#「つけて」に傍点]やろう」
 追っかけようとしたが駄目であった。その時一群の人間が、彼の方へ走って来たからである。
「不可《いけ》ない! しまった! あいつらだ! 多勢に一人、とっ[#「とっ」に傍点]捉まる!」
 サーッと一散に走り出した。露地が左右に別れている。
「よし、こっちだ!」と曲がったは左で、そこでグルリと振り返って見た。町人風ではあったけれど、ただの町人とは思われない、そういう人数が一二三人、執念《しつこ》く後を追っかけて来る。
「俺には解《わか》る! あの一味だ! ……偉いことになったぞ、偉いことになったぞ! ……こんな大物になろうとは、夢にも俺は思わなかった!」
 ――露地が丁字形になっていた。左へ曲がるとトッ走った。と、小広い往来へ出た。
「不可《いけ》ない不可ない、往来は不可ない! 人に見られたらみっとも[#「みっとも」に傍点]ない!」
 ――またもや露地へ駈け込んだ。追って来る一団も駈け込んだらしい、足音が乱れて聞こえてくる。案内には詳しい岡引である。露地から露地と縫って走る。だが執念深い追手であった。どこ迄もどこ迄も追っかけて来る。
「南無三宝! 行き止まりだ!」
 まさしく露地は行き止まり、その正面に格子造りの、粋な二階家が立っていた。
「ううむ」と唸ったが岡引の松吉は、早くも決心をしたらしい。飛びかかると格子をソロリと開け、それを閉じると穿物《はきもの》を脱ぎ、懐中《ふところ》に入れたが敏捷である、障子を開けると辷《すべ》り込んだ。
「だアれ!」と直ぐに声がして、つづいて隣部屋から現われたは、風俗《なり》で解る、女役者であった。
「太夫、頼む、かくまって[#「かくまって」に傍点]くれ!」

 ちょうどその日のことである。時刻は午後三時頃でもあろうか、所は蔵前の表通り、そこに立っている加賀屋の店へ、しとやかに入って来た若侍があった。
「拙者は宇和島と申す者、当家御主人にお目にかかりたく、大阪表よりまかりこしてござる、よろしくお取次ぎ下さいますよう」
 若侍は奥へ通された。





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