国枝史郎「前記天満焼」(17) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(17)

17

「町役人の方が参りまして、主人に逢いたいと申しました。そこで丁寧に奥の間へ通し、その旨を主人に申しましたところ、早速主人はそのお方にお逢いし、しばらくお話しして居りましたが、私は手代のことではあり、その場にも居らず、立聞きもせず、店へ参って居りますと、やがてそのお方がお帰りになり、主人も送って出られましたが、その時の主人の顔の様子が、変わって居りましてございます。不安の気持とでも申しましょうか、そんなようなものが顔に見え、おどつ[#「おどつ」に傍点]いていたのでございますが『困った奴だ! 源三郎め! これが本当なら勘当ものだ! えいこうしてはいられない! 調べてやろう! 調べてやろう』と、呟いたものでございます。……それから奥へ入りましたが、どうしたものでございましょうか、それっきり姿が消えましたので、一同大きに驚きまして、諸所方々を探しましたが、今にかいくれ[#「かいくれ」に傍点]知れませんような次第、裏木戸から外へでも出ましたものか、錠が破壊《こわ》れて居りました。……しかも、その晩には若旦那にも、家へ帰っておいでなされず、いまだに帰られないのでございます。……そういう不思議な出来事が、一度に起こって参りましたので、お可哀そうにもお嬢様には。……」
 こうここまで云って来て、手代の長吉は口を噤んだ。
 と云うのは側《そば》にお嬢様が――すなわち品子という十八の娘が、放心したような顔をして、茫然《ぼんやり》坐っていたからである。
 ここは加賀屋の奥まった部屋で、三人の人物が対座している。
 手代の長吉と娘の品子と、そうして今しがた訪ねて来た、宇和島鉄之進という若侍である。
「なるほど」と云ったのは宇和島という武士で、当惑を顔へ現わした。
「いや左様なお取り込みとも存ぜず、お訪ねしてかえって失礼をいたした。拙者は大阪表より――平野屋と申す大家より、大切の品物をあずかって、持参いたしたものでござるが、御主人が不在とあって見れば、その品物は渡し難く、一旦宿元へ持ち帰りましょう。……しかしそれにしても、御主人の行方の、一日も早く知れますよう、願わしいものでございます」
 そっと品子を見やったが、
「品子様とやら御心配でござろう。しかし心をしっかりと持たれ、決してお取り乱しなされぬよう」
 こうは云ったが心の中では、
「可哀そうに少しく上気して居る。こじれ[#「こじれ」に傍点]ると発狂もしかねまい」
「それでは御免」と立ち上った。
「主人在宅でございましたら、お扱い様もございますのに、この様な有様でございますれば……」
 気の毒そうに長吉が云った。
「いやいや何の、心配は御無用」
「それでは、ただ今のお住居《すまい》は?」
「神田神保町の若菜屋でござる」
 云いすてると宇和島鉄之進は、事情を審しく思ったのであろう、小首を傾げながら座を立った。
 そこで、長吉は送って出たが、後に残った品子という娘が、不意に甲高い声を上げた。
「妾《わたし》には解《わか》る! 殺されていなさる! おお、お父様もお兄様も!」
 フラフラと立つと眼を抑えた。
「お久美様の祟りだ、お久美様の祟りだ!」
 フラフラと部屋から外へ出た。
 水に螢をあしらった、京染の単衣が着崩れてい、島田髷さえ崩れている。後毛のかかった丸形の顔が、今はゲッソリ痩せている。優しく涼しい眼だったろう、それが一方を見詰めている。
 足許さだまらず歩いて行く。
 やがて襖をスルリと開けた。
「宇和島様!」と不意に呼んだ。
「綺麗な綺麗なお武家様!」
 それからまたも甲高く、
「献金いたすでございましょう! お久美様お久美様お助け下され!」
 また襖をスルリと開けた。奥庭の方へ行くのでもあろう。
 その時衣摺れの音がして、すぐに一方の襖が開いたが、その風俗《みなり》で大概わかる、どうやら品子の乳母らしい、四十ぐらいの女が現われた。
「まあお嬢様!」と声をかけたが、やにわに品子を抱きしめると、二人ながらベタベタと崩折れた。
「乳母《ばあや》!」と呼んだが縋り付いた。
「お嬢様お嬢様! ……もう不可《いけ》ない! ……気が狂われた! お可哀そうに!」
「乳母!」と縋ったがうっとり[#「うっとり」に傍点]となった。
「献金しておくれよ! たくさんにねえ」
「どこへ?」と乳母は眼を見張った。
「お久美様へだよ。……ねえたくさんに。……」
 すると乳母のお繁の顔へ、凄い微笑があらわれたが、
「はいはいよろしゅうございますとも」
 だがその時ソロソロと、一方の襖があけられて、一人の男の顔が出た。薄痘痕《あばた》のある顔である。気付いてお繁が顔を向けると、すぐに襖は閉ざされた。
「蔵番の東三だが、変だねえ」
 何となく不安を感じたのだろう、お繁は頤《おとがい》を襟へ埋めたが、ちょうどこの頃宇和島鉄之進は、順賀橋《じゅんがばし》の辺りを歩いていた。




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