国枝史郎「前記天満焼」(19) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(19)

19

「おや」と鉄之進は怪訝そうにした。
「誰に云ったのだろう? この俺にか?」
 するとまた駕籠から声がした。
「轡《くつわ》の定紋のお侍様、駕籠に付いておいでなさりませ」
「うむ、違いない、俺に云ったのだ」
 ――いずれ理由《わけ》があるのだろう。――こう思ったので鉄之進は、素早く駕籠の後を追った。
 側に芝居小屋が立っていた。付いて廻ると木戸口があった。と駕籠が入って行く。つづいて宇和島鉄之進が、入って行ったのは云うまでもない。舞台裏へ入る切戸口の前で、駕籠がしずかに下りたかと思うと、駕籠の戸が内から開き、一人の女が現われた。女役者の扇女《せんじょ》である。切戸口から内へ入ろうとした時、裏木戸から武士達が入り込んで来た。鉄之進を従けて来た武士達である。
「御心配には及びませんよ」
 扇女は鉄之進へ囁いたが、五六人の武士へ眼をやった。
「ねえ皆さん方、見て下さいよ。ここに居られるお侍さんが、この妾《わたし》の恋しい人さ。……だから虐《いじ》めちゃアいけないよ。……お前さん達のお頭の、鮫島大学さんへ云っておくれ。女役者の扇女の情夫《いろ》は、途方もなく綺麗なお武家さんだったとね。……何をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]しているんだよ。日中狐につままれもしまいし。……早くお帰り早くお帰り!」
 鉄之進の方へ身を寄せたが、
「いらっしゃいまし、妾の部屋へ」
 裏舞台へ入り込んだ。
 楽屋入りをする道程《みちすがら》に、扇女は鉄之進を助けたのであるが、たしかもう一人扇女のために、助けられた人間があるはずである。
 その助けられた人間が、ちょうどこの頃江戸の郊外に、つく[#「つく」に傍点]然として坐っていた。
 ここは隅田の土手下である。
「十から八引く十一が残る! 今度こそとうとうこんなことになった。何しろ俺という岡引が、悪党に追われて逃げこんだからなあ。由来岡引というものこそ悪党を追っ掛けて行くものじゃアないか。世は逆さまとぞなりにけり」
 丁寧松事松吉である。
 背後《うしろ》に大藪が繁っていて、微風に枝葉が靡いていた。ここらは一面の耕地であったが、耕地にはほとんど青色がなかった。天候不順で五穀が実らず、野菜さえ生長《おいた》たないからであった。所々に林がある。それにさえほとんど青色がなく、幹は白ちゃけて骨のように見え、葉は鉄錆て黒かった。どっちを眺めても農夫などの、姿を見ることは出来なかった。
 丁寧松は考え込んだ。





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