国枝史郎「前記天満焼」(21) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(21)

21

「今まで藪の中にいたのかい?」
「ここが私の別荘で」
「いや豪勢な別荘だ」
「少し藪蚊は居りますがね」
「人間の藪蚊よりは我慢出来る」
「いや全くでございますよ」
 乞食の上州はニヤリとしたが、
「不景気以上の大飢饉で、どこへお貰いに参りましても、まるで人間の藪蚊のように、相手に致してはくれませんなあ」
 云い云い上州は坐り込んだが、妙におかしなところがある。髯こそぼうぼうと生えているが、そうして垢で埋まってはいるが、太い眉に秀でた額、極めて高尚な高い鼻、トホンとした眼付きはしているが、よく見ると充分に知的である。だが口付きは笑殺的で、酸味をさえも帯ている。尋常な乞食とは思われない。
「こいつどうにも怪しいなあ」
 ――そこは松吉商売柄だ、何か看破をしたらしい。
 と、ソロソロと懐中《ふところ》の内へ、右の片手を突っ込んだが、
「私の云ったのはそうではない。お前さんのような由緒のある人を、乞食の身分に落とし入れた、世間のやつらが藪蚊だというので」
「え?」と乞食は眼を据えたが、
「この私が由緒のある。……」
「おい!」
「へい」
「正体を出せ!」
「何で?」と立とうとするところを、
「狢《むじな》め!」と一喝浴びせかけ、引き出した十手で、ガンと真向を! ……
「あぶねえ」と左へ開いたが、
「御冗談物で、親分さん」
「まだか!」
 懐中の縄を飛ばせた。
「どうだァーッ」と気込んでその縄を引いたが、
「なんだ! こいつアー 青竹の杖か!」
 乞食の両脚を搦んだものと、固く信じた松吉であったが、見れば見当が外れていた。乞食は青竹の杖を突いて悠然として立っている。その杖へ縄が搦まっている。万事意表に出たのである。
 だがその次の瞬間に、もう一つ意外の出来事が起こり、ますます松吉の肝を冷やした。と云うのは岡引の松吉が、
「いよいよ手前!」と叱咤しながら、グーッと縄を引っ張った途端、スルリとばかり杖が抜け、ギラツク刀身が現われたからである。
「青竹仕込みの。……」
「偽物で。……」
「何を!」
「見なせえ!」と上州という乞食は、カラッと刀を放り出した。
「どう致しまして……そんな古風な……敵《かたき》討ちの身分じゃアございませんよ。……ましてや大袈裟な謀反心なんか、持っている身分じゃアござんせんよ。……玩具《おもちゃ》でござんす! 銀紙細工の! もっとも」と云うと身をかがめ、
「呼吸《いき》さえ充ちて居りますれば、竹光であろうとこんな[#「こんな」に傍点]もので」
 その竹光を拾い上げ、スパッとばかりに叩っ切った。
 立木があって小太かったが、それが斜かいに切り折られ、
その切口が白々と、昼の陽を受けて光ったのである。
「素晴らしいなあ」と岡引の松吉は、心から感嘆したように、ドカリと草の間へ胡座《あぐら》を掻くと、
「ゆっくり話をいたしましょう」
「へい、それでは」と上州という乞食も、並んで側《そば》へ腰を下ろしたが、しばらく物を云わなかった。
 二人ながら黙っているのである。
 いぜんとして耕地には人影がなく、ひっそりとして物寂しく、日ばかりが野面を照らしている。
 と、一所影が射した。雲が渡って行ったのだろう。
 都――わけても両国の空は、ドンよりとして煙っている。
 砂塵が上っているのだろう。
 乞食はそっちを見ていたが、ふっ[#「ふっ」に傍点]とばかりに呟いた。
「今夜あたり起こるでございましょうよ。恐ろしい恐ろしい騒動が」
「ほほう」と云ったものの松吉は、どういう意味だか解らなかった。
「何が起こると有仰るので!」
 丁寧な言葉で訊き出した。
「私は乞食でございますよ」
「まあね、そりゃア、そうかも知れない。……それがどうしたと仰有るので?」
「で、江戸中をほっつい[#「ほっつい」に傍点]ています」
「私の商売と似ていまさあ」
「私の方がもっともっと、露地や裏店に縁故があります」
「そうして私にゃア悪党がね」
「どっちみち浮世の底の方に、縁故があるというもので」
「正に! そうだよ! 違いないなあ」
「親分!」と乞食は意味あり気に云った。
「露地や裏店の連中が、黙っているものと思いなさるかね?」
「何を?」
「へー」
「何をだよ」
「そいつを私にお訊きなさるので?」
「うん」と云ったが気になる調子だ。
「大概見当は付いているがね。……」
「隣家《となり》の餓鬼が死のうとも、こっちのお家じゃア驚かない。ところが一旦自分の方へ。……」
「移った日にゃア狂人《きちがい》になる」
「そいつが総体に移っているので」
「全くなあ、その通りだ。場末の横町へ踏み込むと、飢え死んだ人間が転がっているなあ」
「今度は俺らの番だろう……こう考えている人間が、幾万人あるか知れないんで」
「そうだろうなあ、そう思うよ」
「理屈抜きに皆が食えないんで」
「こいつが一番恐ろしい」
「そこを狙って悪い奴が――でなかったら義人だが。もっとも血眼で探したって、義の付く人間なんかいませんがね――烽火《のろし》を揚げたらどうなりましょう」
「煽動したらと云うのかい」
 乞食は幽かに頷いたが、
「火が上りますぜ! 今夜あたり! そうしてそれから騒動よ! 米屋が襲われるでございましょう」
「だがオイ」と云うと詰め寄った。
「どうして付けたね……え、眼星を! そうだよそうだよ、どうして今夜と?」
「申し上げたじゃアございませんか。ね、乞食の身分だと」
「それは知ってる、知ってるがね。……」
「下情に通じて居りますので」
「それも知ってる、知ってるがね。……」
「推察したのでございますよ。今夜あたりが天井だと」
 松吉は黙って腕を組んだ。





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