国枝史郎「沙漠の古都」(09) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(09)

        九

「張の姿が見えないぞ!」
 朝早くレザールが叫び出した。マハラヤナ博士もラシイヌもその声に驚いて飛び起きた。沙漠の暁の薄光が天幕《テント》の中へ射している。彼らは真っ先に球を納《い》れた鉄の手箱をさがしたが、その影さえも見えなかった。一行三十人の人々は手を分けて張を探したがどこにも姿は見えなかった。みんな絶望して溜息をついてそして沈黙に落ち入った。
「信用したのが悪かったね。今さら云っても返らないが」ラシイヌの声は憂欝だ。
「彼奴《きゃつ》はいったい何者だろう? 仏蘭西《フランス》語が出来て英語が出来て料理が上手で度胸がある。西域の地図を持っていた――ただの鼠じゃなかったんだ」レザールの声は泣きそうだ。ひょうきん者のダンチョンさえ黙って地面を見つめている。
 しかしいつまでそうやっていても張の出て来るきづかいはないので、またも一同立ち上がって彼の行衛をさがしだした。今度は幾組かに組を分け四方へ一度に出て行った。
 ラシイヌと博士との一行は同勢八人が一団となり東北をさして探しに出た。わずか一里ほど行った時意外にも一つの村へ出た。常磐木《ときわぎ》が青々と茂っている、泉が地面から湧き出ている。村には一つの祠《ほこら》があって狛犬が二匹並んでいる。
「ははあ市長が水晶の球と羊皮紙とを発見《みつけ》た祠というのは、ここにあるこの村の祠だな。しかしこんなに手近な所に緑地《オアシス》があろうとは思わなかった。恐らく張の逃げ込んだのもこの緑地《オアシス》に違いない」ラシイヌは心でこう思ったので土人を無理に引っ捕らえ博士の通弁で質問した。
「はい逃げ込んで参りました」冷笑しながら土人は云った。
「そしてたった今湖水を指して発足したばかりです」
「湖水というのはどこにある?」
「南方十里の彼方です」
 ラシイヌも博士もこれを聞くと顔を見合わせて微笑した。手掛かりを握ったからである。土人を二、三人案内にしてすぐ南方へ足を向けた。途中で一夜、夜を明かし翌日の正午《ひる》ごろそこへ着いた。湖水は波も平らかに凍りもせずに澄んでいる。岸に一艘の獣皮の船が水に軽々と浮かんでいる。ラシイヌと博士は船へ行って中の様子を調べて見た。鉄の手箱が空のままで船の中に二つ置いてある。そしてその横に手帳がある。表紙に書いてある六個の文字――「備忘録、張教仁」と鮮かに……
 マハラヤナ博士は声を立てて備忘録の文章を読んで行った。張という人物のいかなる者かを二人は初めて了解した。湖水の岸の洞穴が開いて流れ込む水に連れられて三人を乗せた獣皮の船が同じく洞穴へ流れ込んだと記してあるあたりの文章は、博士とラシイヌとを驚かせた。二人は手帳から眼を放して湖岸を見廻したほどである。しかしもちろんどの岸にもそんな洞穴は開いていない。備忘録の最後の頁にはこんな意味のことが書いてあった。
 沙漠の地下にこんなに大きい、こんなに賑やかな古代都市が、そっくりそのまま建っていて歴史上既に亡びている回鶻《ウイグル》人が生きていて元気に働いていようとは、何という文明の驚異だろう。驚異ではあるが夢ではない。私達三人はその都会で市民達によって、今、現在、未曽有の歓迎を受けている。ああその都会の美しさ――それは現代の美ではない。それは天国の美しさだ――ああその都会の不思議さは文字や言葉ではあらわせない。そしてついに我々は水晶の球にからまっている巨財についての不思議な謎をいとも容易に解くことが出来た。市民達が教えてくれたのだ。吾らはその富を獲るために近日地下の都会を出て南の方[#「南の方」に傍点]へ行こうと思う。新しい船の用意も出来、新しい手帳の準備も出来た。もうこの古い獣皮の船、もうこの穢れた備忘録、私には不用のものとなった。地下水道を逆流するロブノール湖の水に託して沙漠にいる人々へ送ろうと思う。博言博士にラシイヌ閣下、ダンチョン君にレザール氏、さようならさようなら!
 不思議と暖かい日であった。そのくせ空は曇っている。そしてそよとの風もない。探検隊の一行は沙漠にいる必要がなくなったので、出発の準備にとりかかった。
 博士とラシイヌとは肩を並べ沙漠を的《あて》なく逍遙《さまよ》いながら、感慨深そうに話し合った。
「あなたを印度《インド》からお呼びしてわざざわざ参った甲斐もなく探検は失敗に終りました。あなたに対してもお気の毒で済まないことに思っています」
「いやいや」と博士は打ち消した。「私《わし》に斟酌《しんしゃく》は無用じゃよ。かえってあんたにお気の毒じゃ。さぞまあ落胆したろうが、これも一つの運命じゃ」
「それにしても博士、地下などに、ほんとに都会があるものでしょうか?」
「沙漠のことじゃ、そんなことも、全然ないとは云われまい」博士はちょっと考えてから、「つまり沙漠は文明の墓じゃ。死んだ者ばかり住んでいるところで、人界でもあることだが仮死の状態の人間をうっかり死んだと誤認して墓に持ってくることがある。それとそっくり同じで沙漠の暴風が一晩吹いて、砂上に出来ている大都会を一夜に葬ることがあるが、葬られながら尚地下で生きていないとも限らない」
「そうかと思うと一夜のうちに、暴風が砂を吹き上げて、埋没した都会を一瞬間に地上へ出すということを何かの本で見ましたが、そういうこともあるのでしょうね?」
「そういうこともあるそうだ」博士は幾度も頷いた。
 この言葉が讖《しん》をなしたのか、果然、その晩、季節はずれの暴風が一夜吹きつのった。そして眼の前の砂丘の上へ石の標柱を現出した。それに刻まれた回鶻《ウイグル》語を博士が朗々と読んだ時、ラシイヌもレザールもダンチョンも息をひそめて傾聴した。
 我らの国家亡びんとす。キリスト教徒は我が敵なり。
 巨財を砂中に埋ずむべからず。南方椰子《やし》樹の島国に送る。形容は逆蝶。子孫北方に多し。
 三羊皮紙に内容を書し亜細亜《アジア》の天地にこれを送り、一柱二晶に解釈を記す。
「形容は逆蝶、子孫北方に多しか……」しばらく経ってからこう云ってラシイヌはじっと考えた。と不意にクルリと身を翻えして天幕《テント》の方へ馳せ帰った。万国地図を取り出して彼は仔細に調べだした。
「諸君、解った。濠州だ」ラシイヌは元気よく云い放った。
「見たまえ濠州のこの形を、逆にした蝶にそっくりだ。北方の海中に島が多い。だからすなわち子孫多しだ。思うに古代の回鶻《ウイグル》人は国家の亡びるその際に財産をあげて南洋へ送り濠州のどこかへ隠したと見える。そしてその事を水晶の球と石の標柱とに記したのだ。それから三枚の羊皮紙へ暗示的の文章を書き記して亜細亜《アジア》方面へ送ったと見える。それで後世智恵者があって羊皮紙の文字に疑いを起こし沙漠へ探検にやって来てあの標柱を掘り出すか、二つの水晶球を得るかすれば、巨億の財産を隠匿《いんとく》した場所を発見することが出来るという、そういう寸法にして置いたらしい。恐らく張というあの支那人も、羊皮紙の一枚を手に入れた幸運な智恵者の一人なんだろう。そして運よくあの男は水晶の球を二つながらここで手に入れたに違いない。しかし僕らも天の助けで、あの標柱をさがし当てた。僕らと張は五分五分だ。沙漠には用がなくなった。舞台は南洋に移ったのだ――それでは僕らも沙漠を横切り支那の本土へ一旦出てさらに南洋へ行こうではないか」
 いかにも愉快そうにこう云ってラシイヌはみんなを見廻した。みんなの顔にも歓喜の情があふれるほどに漲《みなぎ》っている。
 沙漠はその間も、キラキラと幻のように輝いている。
 秘密! 秘密! あらゆる秘密を蔽い隠しているように沙漠は朝陽に輝いていた。



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