国枝史郎「前記天満焼」(22) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(22)

22[#「22」は縦中横]

 組んだその腕をパラリと解くと、
「素性を明かしておくんなせえ」
 丁寧な語調で問いかけた。だが、態度には隙がない。
「さればさ」と云ったが沈痛であった。
「上州産れの乞食だと、こうもう私が云ったところで、合点をしては下さるまいねえ。……永らく私の住んでいた、その土地の名でも申しましょう。……遠い他国なのでございますよ」
「と云って唐でもありますめえ」
「いやその唐だよ、上海《シャンハイ》だ!」
「上海?」
「左様」
「そうでしたかねえ」
「この国へ帰ったのは一年前」
 いよいよ沈痛の顔をしたが、
「追っかけて来たのでございますよ」
「何をね?」と松吉は突っ込んだ。
「大事なものを!」とただ一句だ。
「で、眼星は?」
「まず大体。……」
「付いた? 結構! 方角は?」
「あの方角で! 霊岸島!」
「うむ」と云うと岡引の松吉は、十手と取縄とを懐中へ蔵《しま》い、
「霊岸島には用がある。おいお菰さん、一緒に行こう」
「へい」と云ったが空を見た。
「夏は日永で暮れませんねえ」
「ホイ、ホイ、ホイ、そうでしたねえ、日のある中は何にも出来ねえ」
 だがその日もとうとう暮れ、夜が大江戸を領した時、いう所の、「ぶちこわし」――掠奪、放火、米騒動の、恐ろしい事件が勃発した。

 最初に暴動の起こったのは、霊岸島だということである。
 ここはその霊岸島で……
 今、一団の群集が、柏屋の裏口から走り出した。
 五十人余りの人数である。
 真先に立ったのは巫女姿のお久美で、点火した龕を捧げてい、御弊を片手に持っている。懐刀仕込みの御弊である。
 白衣、高足駄、垂らした髪、ユラユラユラユラと歩いて行く。
 傍に添ったのは市郎右衛門で、脇差を腰にさしている。
 それを囲繞した五十余人が、東北の方へ走って行く。
 大音に叫ぶはお久美の声で……
「おお信者らよ、教法を守れ! 破壊しようとするものがある! おお信者らよ、教法を守れ! ……有司の驕慢、幕府の横暴、加うるに天災、世は飢饉! 天父がお怒りなされたのだ! 恐れよ、慎め、おお人々よ! 天父をお宥め申し上げろ! ……続け、続け、我に続け! 浄土が見えよう、我に続け! 飢えたる者よ、我に来よ! 死したる者よ、甦るだろう! 病める者よ、癒されるであろう! ……食を見付けよ! 到る所にあろうぞ! 我に来る者よ、幸福であろうぞ! ……」
 東北の方へ進んで行く。次第に人が馳せ集まり、百人、百五十人、二百人となった。
「世の建て直しだ!」と誰か叫んだ。
「焼打ち! 焼打ち! 焼打ちにかけろ!」
 ボーッと一所から火が上った。
「浮世を照らせ! 浮世を照らせ!」
 火事が見る見る燃え拡がる。
 群集を掻き分け狂信者の一団は、東北へ東北へと走って行く。
 火事の凄じい紅の光! 青い火が一点縫って行く。お久美の捧げた龕の火だ!
 叫声! 悲鳴! 鬨の声! ドンドンドンと破壊の音! それが一つに集まって、ゴーッと巨大な交響楽となる。
 一瞬の間に霊岸島は、修羅の巷と一変した。
 と、その時、鮫島大学の、屋敷の門がひらかれて、
「さあ方々、出動なされ! 面白い芝居が打てましょうぞ!」
 こう叫んだ男がある。他ならぬ鮫島大学であった。
 と、ムラムラと出て来たは、大学一味の無頼漢であった。
「火の手は上った! 燃え上った! 役目をしようぞ、風の役目を!」
 同じく鮫島大学である。
 一団となって東北の方へ、走って行こうとした折柄、漲る暴徒を掻き分けて、こっちへ走って来る人影があった。
 岡引の松吉と「上州」である。




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