国枝史郎「前記天満焼」(23) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(23)

23

 岡引の松吉と上州と、そうしてお久美の一団とは、当然衝突しなければならない。
「上州、お前は自由《まま》にするがいい、俺は逃げるぜ。相手が悪い!」
 云いすてると岡引の松吉は、露地へ一散に駈け込んでしまった。
「いやはやまたも逃げ出しの番か、今日は朝からげんが悪い。……こいつがあたりまえ[#「あたりまえ」に傍点]の連中なら、何の俺だって逃げるものか。……ところが相手は大変者だ。のみならず今夜は大勢で、しかも狂人《きちがい》になっている。取り囲まれたら助からない」
 そこで、一散に走るのであったが、お久美を頭に狂信者の群が、その後を追って走って来た。
「今朝方秘密の道場を、看破った人間にございます。連雀町の松吉だと、自分から宣って居りました。岡引に相違ございません」
 こう云ったのは市郎右衛門で、脇差を抜いてひっ[#「ひっ」に傍点]下げている。
「岡引といえば、官の犬、犬に嗅ぎ出された上からは、手入れをされると思わなければならない。手入れをされないその前に、是非とも命を取ってしまえ!」
 龕を捧げたお久美である。
「今朝方仰せをかしこみまして、追いかけましてございますが、とうとうとり逃がしてしまいました。懲りずにまたも近寄りましたは、何より幸いにございます。今度こそ逃がさず追い詰めて、息の根を止めるでございましょう」
 狂信者の群を見廻したが、
「向こうへ逃げて行くあの男こそ、我々にとっては無二の敵、教法を妨げる法敵でござる。追い付いて討っておとりなされ」
 狂信者の群が後を追う。
 背後《うしろ》を振り返った岡引の松吉は、
「いけないいけない追っかけて来る。いよいよ今朝方と同じだ。さあてどっちへ逃げたものだ。まさかにもう一度扇女《せんじょ》さんの家へ、ころがり込むことも出来ないだろう。一体ここはどこなんだろう?」
 霊岸島の一ノ橋附近で、穢い小家が塊まっている。火事の光でポッと明るく、立騒いでいる人の姿が、影絵のように明暗して見える。
「火事だ火事だ!」
「ぶちこわしだ!」
「さあ押し出せ!」
「ぶったくれ!」
 などという声々が聞こえてくる。
 軒に倒れている人間がある。飢えた行路人《ゆきだおれ》に相違ない。家の中からけたたましい、赤子の泣き声が聞こえてくる。乳の足りない赤子なのであろう。
 そこを走って行く松吉である。
 と、右へ曲がろうとした。するとそっちから叫び声がした。
「こっちへ来るぞ打って取れ!」
 即ち狂信者の連中が、三方四方に組を分け、包囲するように追って来たが、その一組がその方角から、こっちへ走って来るのであった。
「いけない!」と喚くと岡引の松吉は、身を飜えすと左へ曲がった。
 なおも、ひた走るひた走る。
 するとその行手からこっちを目掛け、狂信者の群が走って来た。
「いけない」と露路へ走り込んだ。
「どうぞお助け下さいまし」
 露路に倒れていた一人の老婆が、腕を延ばすと縋り付こうとした。
「お粥なと一口下さりませ」
「こっちこそ助けて貰いたいよ」
 振り切って松吉はひた走る。
 出た所が川口町で、群集が飛び廻り馳せ廻っている。
 大火になると思ったのだろう家財を運んでいる者がある。
 ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]が恐ろしい連中なのであろう雨戸を閉ざす者もある。
 露路に向かって駈け込む者、露路から往来へ駈け出る者……それで、往来はごった返している。
「うむ、これなら大丈夫だ。身を隠すことも出来るだろう」
 松吉は背後《うしろ》を振り返って見た。薄紅い火事の遠照を縫って、青い火が一点ゆらめいて来る。
「どうもいけない、目つかりそうだ」
 また走らなければならなかった。
 出た所が富島町で、それを突っ切ると亀島橋、それを渡れば日本橋の区域、霊岸島から出ることが出来る。
「よし」と云うと岡引の松吉は、亀島橋をトッ走った。
 中与力《なかよりき》町が眼の前にあって、組屋敷が厳しく並んでいる。
「しめたしめた」とそっちへ走った。
 組屋敷の一画へ出られたら、松吉は安全に保護されるだろう。
 だが運悪く出られなかった。ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の一団が大濤のように、その方角から蜒って来て、すぐに松吉を溺らせて、東北へ東北へと走ったからである。
 掻き分けて出ようと焦ったが、人の渦から出られそうもない。
 で、東北へ東北へと走る。
 日本橋の区域も霊岸島と負けずに、修羅の巷を現わしていた。





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