国枝史郎「前記天満焼」(24) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(24)

24

 しかしさすがに蔵前へ迄は、ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の手が届かないと見え、寧ろひっそりと寂れていた。
 と云うのはぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の噂を聞き込み、ここらに住んでいる大商人達が、店々の戸を厳重にとざし、静まり返っているからである。
 ふと現われた人影がある。
「とうとう大事になってしまった」
 他でもない宇和島鉄之進であった。
「江戸中騒乱の巣となろう。死人も怪我人も出来るだろう。霊岸島の方は火の海だ。八百八町へ飛火がしよう。と、日本中へ押し広がる。京都、大阪、名古屋などへも、火の手が上るに相違ない。幕府の有司のやり方が、不親切だからこんなことになる。金持のやり方もよくないよ」
 呟いたがフッと笑い出した。
「いやその金持の加賀屋の主人だが、もう帰ってはいないかしら。どうにも渡すものを渡さなければ苦になって心が落ちつかない」
 扇女《せんじょ》のために危難を救われ、扇女の部屋でしばらく憩い、もうよかろうという時になって、芝居小屋から旅籠へ戻り、今まで休んでいたのであったが、預った物が心にかかる。そこで加賀屋をもう一度訪ねて、主人が帰っているようなら、早速渡そうと出て来たのであった。
 本多中務大輔《なかつかさたいふ》の屋敷の前を通り、書替御役所の前を過ぎ、北の方へ歩いて行く。
 鮫島大学の一味に追われ、日中早足に歩いたところを、逆に歩いて行くのである。
 急に鉄之進は足を止めた。
 眼の前に加賀屋が立っている。しかし表戸は厳重に下ろされ、静まり返って人声もしない。
 しばらく見ていたが苦笑いをした。
「そうでなくてさえこんな大家は、点火《ひともし》前には戸を立てるものだ。ましてやこんな物騒な晩には、閉じ込めてしまうのが当然だ。――と云うことも知ってはいたが、やはりうかうか[#「うかうか」に傍点]出て来たところを見ると、利口な俺とは云われないな」
 ここでちょっと考えたが、
「戸を叩くのは止めにしよう。怯えさせるのはよくないからなあ」
 そこでクルリと方向を変え、元来た方へ引っ返そうとしたが、
「待てよ」と呟くと足を止めた。
「今日長吉という若い手代が気になることを云ったっけ、『……裏木戸から出たのでもございましょうか、錠がこわれて居りました』と……その裏木戸を見てやろう」
 勿論単なる好奇心からではあったが、加賀屋の大伽藍の壁に添い、宇和島鉄之進は裏へ廻った。
 裏木戸の前まで来た時である、木戸の内側から女の声が、物狂わしそうに聞こえてきた。
「出しておくれよ、出しておくれよ!」
「戸外《そと》は物騒でございます、今夜だけは止めなさりませ」
「出しておくれよ。出しておくれよ!」
「明日の昼にでも参りましょう。さあさあ、お嬢様、お休みなさりませ」
「ねえ乳母《ばあや》、献金しておくれよ。……お久美様へねえ。どっさりお金を」
「はいはい献金致しますとも。……今夜はお休みなさりませ」
「眼の前にお父様がお在《い》でなさる。……ああそうしてお兄様も。血だらけになってお在でなさる。……でもお二人とも呼吸《いき》はある。……助けてお上げよ! 助けてお上げよ!」
「ね、お嬢様、お休みなさりませ。……どなたか参るといけません。……ね、お嬢様、お嬢様。……」
「すぐ眼の前にいなさるのだよ。……ほんのちょっとした物の陰に。……妾《わたし》には解《わか》る! 妾には解る!」
「……どうでもお気が狂われた。……あれ誰やら参ります。……お部屋へお入りなさいまし。……オヤ、お前東三さんか」
 すると男の声がした。
「ああ蔵番の東三さ。……お繁さんお前何をしている」
「お嬢さんが出なさろうというのだよ。……それで妾は止めてるのさ」
「ふん」と東三の声がした。
「お前から勧めているのじゃアないか。……ただの乳母《おんば》さんとは異《ちが》うようだなあ」
「何だよ」とお繁の声がした。
「そういうお前さんだっていい加減変さ」




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