国枝史郎「前記天満焼」(26) (ぜんきてんまやけ)

国枝史郎「前記天満焼」(26)

26

 それを追っかけた宇津木矩之丞は、信徒に囲まれ龕を捧げ、逃げて行くお久美へ追い付いたが、
「天誅!」と叫ぶと背後袈裟《うしろげさ》に、右肩から背筋へまで斬り付けた。
 龕が投げられ、悲鳴が起こり、お久美が倒れてノタ打つのを、宙へ舁《か》きのせたが狂信者の群は、矩之丞の手並に恐れたのであろう、往来の方へなだれ出た。
 もう追おうともしなかった。宇津木矩之丞は血刀を拭うと、ソロリと鞘へ納めたが、
「何か加賀屋にあったようだ」
 裏木戸までスルスルと引っ返した時、その裏木戸が中から開けられ、
「お武家様いかがでございました」
 岡引の松吉が顔を出した。
「ちょっとお入り下さいまし、加賀屋の主人と若旦那とが。……」
「源右衛門殿がな」と入ったが、やがて遠々しく声がした。
「や、若主人が源右衛門殿を!」
「ナーニ、からくり[#「からくり」に傍点]でございます」
 岡引の松吉の声である。

 一方鮫島大学の身にも、一つの事件が起こっていた。
「さあさあ方々出動なされ、面白い芝居が打てましょうぞ。……火の手は上った。燃え上った。役目をしようぞ、風の役目を!」
 火事場泥棒の心持である。ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の騒動に付け込んで、悪事をしようと企んだのである。
 自分自身が真っ先に立ち、混乱の巷へ押し出した時、一人の乞食が走って来たが、チラリ大学を横目で見ると、掠めるようにして馳せ違った。
「はてな、彼奴《きゃつ》は?」と鮫島大学は、背後の方を振り返ったが、もうその時には乞食の姿は、暴徒に紛れて見えなかった。
 しかし乞食は立ち去ったのではない。大学の屋敷の裏手の方に、身を潜《ひそ》めていたのである。
 と板壁へ手をかけた。そうして次の瞬間には、屋敷の内側へ飛び込んでいた。
 探すものでもあるのだろう。足音を盗んで入って行く。
 一つの部屋の前へ来た時である。唄うような女の声がした。
 扉を押しひらいた乞食の上州は、
「お妻殿か!」
「たあれ、貴郎《あなた》は?」
 上海《シャンハイ》風の部屋の中に、上海風の寝台があり、上海風の阿片食《アヘンくい》のお妻が、阿片の吹管を抱きながら洞然とした眼で見詰めている。
「拙者でござる。探しに来ました! ……それでもとうとう目つかった! ……ああそれにしても変わられたことは! ……」
 凝然として突立った。
「これが支部長の令嬢か! これが俺の許嫁《いいなずけ》か! 生ける死骸だ! 生ける死骸だ!」
「阿片をおのみなさいまし」
 茫然としてお妻が云った。
「何も彼も忘れてしまいましょう。美しい夢ばかり見られます。……あなたはたあれ[#「たあれ」に傍点]!」と恍惚《うっとり》とする。
「どっちみちお助けしなければならない!」
 こう思ったに相違ない。つと進むと腕を延ばし、乞食はお妻をひっ抱えた。
「助けて下さいよ! 助て下さいよ! 誰か妾《わたし》を連れて行きます!」
 行くまいとお妻はもがく[#「もがく」に傍点]のである。
 だが乞食の上州は、いわゆる有無を言わせないという態度で、お妻を抱えた手をゆるめず、部屋から外へ飛び出そうとした。
 そこへ飛び込んで来た人間がある。
「やはり貴殿か!」
 ――と大学であった。
「忘恩の徒よ! 反逆者よ!」
 竹光でこそあれ凄い利器、腕も充分冴えている、大学の胸を貫いた。
 こうして大学は斃れたが、突きさした竹光を突きさしたまま、お妻をかかえて、風のように、馳せ去った乞食の上州は、どこへ行ったものかその時以来、二度と姿を現わさなかった。しかし竹光の柄の上に一連の文字が刻《ほ》ってあったので、その身分を知ることが出来た。
 支那には「白蓮会」だの「哥老会」だの「六合会」だのというような、秘密結社がたくさんあったが、その中の「白毫会《びゃくごうかい》」という結社には、日本人も会員に加わってい、乞食の上州と宣《なの》った人物も(本名は富本雄之進《とみもとゆうのしん》とのこと)鮫島大学も会員であって、支那とそうして日本との間を密行していたそうな。
 富本雄之進は正義の士で、将来の日本の大陸進出のため、支那の内情を知ろうとして、白毫会員になったのであるが、鮫島大学はそうではなく、私利私欲を計ろうとして、白毫会員になったのであり、支那の悪質の娯楽場の組織を、江戸へ持って来て打ち立てて、詐欺的行為までしたのであり、なお彼は支那から帰国する際に、白毫会の支部長(これも日本人)の娘で、雄之進の許嫁にあたる、お妻というのを誘惑して来て、娯楽場の酒場のスターにしたが、阿片常用者にまで堕落させてしまった。
 しかしその当の大学も、許嫁のお妻を取り返すため日本へ帰って乞食にまでなり、大学を探していた雄之進のために、竹光で刺されて殺されてしまい、外国渡来の悪質娯楽場も、おりからの「ぶちこわし」の火事にかかり、まったく灰燼となってしまった。




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