国枝史郎「善悪両面鼠小僧」(01) (ぜんあくりょうめんねずみこぞう)

国枝史郎「善悪両面鼠小僧」(01)

乃信姫に見とれた鼠小僧

「曲者《くせもの》!」という女性《じょしょう》の声。
 しばらくあって入り乱れる足音。
「あっちでござる!」
「いやこっちじゃ!」
 宿直《とのい》の武士の犇き合う声。
 文政《ぶんせい》末年春三月、桜の花の真っ盛り。所は芝二本榎、細川侯の下邸だ。
 邸内に大きな松の木がある。その一本の太い枝に一人の小男が隠れていた。豆絞の手拭スットコ冠り、その奥から眼ばかり光らせ高縁の辺りを見詰めている。腕を組み体を縮め足を曲げて胸へ着けた様子、ざっと針鼠と云った塩梅《あんばい》、これが曲者当人である。
「ええどうでえ美人《いいおんな》じゃねえか。どうもこいつア[#「こいつア」に傍点]耐《たま》らねえな。ああやって薙刀をトンと突き縁に立った様子と来たらとても下等の女じゃねえ。正にお大名の姫君様よ。吉原にだってありゃアしねえ。へ、ほんとに耐《たま》らねえや。……が、それにしても今夜の俺らを仲間が聞いたら何と云うだろう? おおおおそれでも鼠小僧かえ、どう致しまして土鼠《もぐら》小僧だアね、なるほどお手許金頂戴でよ、大名屋敷へ忍ぶと云やア、豪勢偉そうに聞こえるけれど、細川様の姫君に見とれ[#「見とれ」に傍点]茫然《ぼんやり》突立っているもんだから、眼覚めた姫君に見咎められ、曲者なんて叫ばれたので何にも取らずに飛び出したあげく、それこそほんに鼠のようにあっち[#「あっち」に傍点]へ追われ、こっち[#「こっち」に傍点]へ追われ逃げ場をなくして松の木へ飛び付き漸《やっと》呼吸《いき》を吐いたなんて、へ、それでも稼人《かせぎにん》けえ? 鼠小僧も箍《たが》が弛んだな。――なアんと云われねえものでもねえ。……が、云う奴は云うがいいや。そんな奴とは交際しねえばかりよ。そういう奴に見せてやりてえくらいだ。お美しくて威があって、お愛嬌があって上品と来てはこれぞ女の最上なるものを。クレオパトラだって適《かな》うめえ。ましてその辺のチョンチョン格子、安女郎ばっかり買っている奴には這般《しゃはん》の消息の解《わか》るはずがねえ。……何しろ俺らも驚いたね、いつものデンで忍び込んだ所が場所もあろうに姫君のお寝間、ひょいと覗くと屏風越しに寝乱れ姿が見えたと思え。寝白粉というやつさね。クッキリと白い頸からかけて半分お乳が見えるまで寝巻から抜いだ玉のような肌。まずブルッと身顫いしたね。丹花《たんか》の唇っていう奴をほん[#「ほん」に傍点]の僅かほころばせてよ、チラリと見せた上下の前歯、寝息さえ香ろうというものさ。で、思わず茫然としていつまでも屏風越しに覗いているとポッカリと眼をお開きなされたがにわかに夜具を刎ね上げたのでハテなと思うと声を掛けられた。
「曲者!」という凜とした声。
「掛けると同時にヒラリと起き長押《なげし》の薙刀をお取りになったがいやどうも[#「いやどうも」に傍点]その素早いことは、武芸の嗜みも想われて急にこっちは恐くなり何にも取らずにバタバタと逃げ、かくの通りに松の木の上で、ブルブル顫えておいでなさらア。……と云って恐ろしくて顫えるのじゃねえ。縁に立ったお姫様の薙刀姿が艶かだからよ。……ああ本当に悪くねえなあ。一度でもいいからあんな女を。……おや、畜生、宿直の武士ども漸時《だんだん》こっちへ遣《や》って来やがる。あ、いけねえ見付けやがった!」
「方々曲者を見付けてござる! 松の上に居ります松の上に居ります!」
「えい!」と突き出す大身の槍、それを外して鼠小僧、パッと家根《やね》へ飛び移った。
「それ家根だ!」
「逃がすな逃がすな!」
 五六人家根へ追い上って来る。
 賊はと見ればその賊は、家根棟の上にふん[#「ふん」に傍点]跨がり、大胆不敵にもニヤニヤとこっちを眺めて笑っているらしい。
 ツツ――と一人が走り寄り、「捕った!」とばかり組み付くのを、
「侍、命が惜しくないそうな」
 云うと同時に組まれたまま故意《わざ》と足を踏み辷らし、坂を転がる米俵か、コロコロコロコロと家根に添い、真逆様に落ちたのは、乃信《のぶ》姫君の佇んで居られる高縁先のお庭前で、落ちるより早く身を飜えし、組まれた相手を振り解《ほど》くとひょい[#「ひょい」に傍点]とばかりに突っ立った。
「へへ、これはこれはお姫様、とんだ失礼を致しまして真っ平ご免遊ばしませ。なアんて云うのも烏滸《おこ》がましいが私《わっち》は泥棒の鼠小僧、お初お目見得に粗末ながら面をお目にかけやしょう」
 パッと包んだ手拭を捕るとヌッと露出《むきだ》された変面異相、少し詳しく説明すれば、まずその眼は釣り上ってちょうど狐の眼のようであり、その鼻はひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]て神楽獅子を想わせ、口は大きく横へ裂けて欠けた前歯がまばらに見える。夜眼にもクッキリ顔色は……白くはなくて黒いのだ。四尺足らずの小兵ではあり、全体が不具奇形である。
「へへへへ」と笑う声はどんよりと濁って不愉快を極め聞く人をしてゾッとさせる。いわゆる先天的犯罪面でその残忍酷薄さは一見しただけで想像される。
「無礼者!」と乃信姫はキリリと柳眉を上げたものである。




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