国枝史郎「沙漠の古都」(10) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(10)

    第三回 世界征服の結社


        十

 北京《ペキン》の春は逝きつつあった。世はもう青葉の世界である。胡沙吹く嵐にもろもろの花がはかなく地上に散り敷いた後は、この世から花は失なわれた。ただ紫禁城の内苑に、今を盛りの芍薬《しゃくやく》の花が黄に紅に咲いているばかり。大総統邸の謁見室に、わずかに置かれた鉢植えの薔薇《ばら》さえ、その色も艶も萎れていた。
 中央停車場に程近い燕楽街の十番地に、木立の青葉に蔽われて巍然と聳《そび》えている燕楽ホテルの、三階の一室に久しい前から逗留している客があった。
 客は男女の二人であったが、男の方は、その顔立ちから、南方支那の産まれと覚しい三十歳足らずの貴公子で、起居振る舞いに威厳があった。しかるに一方女の方は、東洋人には相違ないが、支那の産まれとは思われない。むしろ近東土耳古《トルコ》辺の貴婦人のような容貌で、態度はきわめて優美ではあるが、北京《ペキン》の生活に慣れないと見えてどこかにギゴチないところがある。口さがないホテルの使童《ボーイ》達は奇妙な取り合わせの二人を評して、広東産の鶏と土耳古《トルコ》産まれの孔雀とを交接《かけあわ》せたようだと云うのであった。
 二人は大変仲がよくて、室にいる時も一緒にいるし戸外《そと》へ出る時も一緒に出た。しかしおおかたは室に籠もって相談事でもしているらしく、室の錠はいつもおろされていた。
 この頃北京《ペキン》は物騒であった。政府の高官顕職が頻々として暗殺《ころ》された。そして犯人はただの一度も捕縛されたことがないのであった。
 そのまた殺し方が巧妙であった。巧妙というよりも奇怪であった。その一例を上げて見れば、ある白昼のことであったが、警務庁の敏腕の班長が、二人の部下を従えて、繁華な灘子《だんす》街を歩いていた。街路の両側の小屋からは、幕開きの銅鑼《どら》の賑やかな音が笛や太鼓や鉦《かね》に混じって騒々しいまでに聞こえて来る。真紅の衣裳に胸飾り、槍を提《ひっさ》げた怪美童を一杯に描いた看板が小屋の正面に懸かっている。外題はどうやら、「収紅孩」らしい。飯店に出入りする男子の群、酒店から聞こえる胡弓の音、「周の鼎《かなえ》、宋の硯」と叫びながら、偽物を売る野天の売り子、雑沓の巷を悠々と班長と部下とは歩いて行った。
 すると突然班長が苦しそうな声で叫び出した。
「どいつか俺を引っ張って行く! どいつか俺を引っ張って行く! 眼には何んにも見えないけれど、どいつか俺を引っ張って行く! ……遠くで俺を呼んでいる! どいつが呼ぶのか解からないけれど!」
 叫びながら班長は、真白昼《まっぴるま》の、灘子《だんす》街の盛り場を一散に、電光のように走るのであった。
 不思議なことには、そうやって、班長は走って行きながら、全身をちょうど弓のように思うさま後方《うしろ》へ彎曲させて、彼を引き摺る眼に見えぬ力に、抵抗するようではあるけれど、先の力が強いと見えて、見る見るうちに彼の姿は、人波の中に消えて行った。
 しかも翌日彼の姿は屍骸となって皮肉にも警務庁の玄関に捨ててあった。屍骸には一つの傷もない。圧殺したような気振りもない。と云って毒殺の痕跡《あと》もなく、自殺したらしい証拠もない。ただそれは一個の屍体であった。傷がないばかりかその屍骸は掠奪されてもいなかった。官服《ふく》はもちろん懐中の金も一文も盗まれてはいなかった。そして屍骸の死に顔には「驚《おどろ》き」の表情はあったけれども「無念」の表情は少しもない。
 こういう不思議な殺され方で大道へ屍骸《むくろ》を晒らした者は班長ばかりではないのであった。先刻も云った通り政府筋の高位顕官が殺されたのみならず南方は広東でも民党の有力者が殺された。そうかと思うと北方では、張作霖《ちょうさくりん》の将士が殺された。
 誰も彼も全く同一の、不思議な殺され方で死ぬのであった。すなわち眼に見えない何者かが、眼に見えない人の呼ぶ方へ、眼に見えない力で引っ張って行く。そして行衛《ゆくえ》が失われる。そして翌日は九分九厘まで大道へ屍骸を晒らすのであった。
 こういう奇怪の殺人が、頻々と行われるそのうちに、北京童《ペキンわらべ》の口からして次のような詩《うた》がうたわれるようになった。
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古木天を侵して日已《すで》に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
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 北京を振り出しに、この詩は、田舎へまでも拡がった。中華民国の津々浦々で、唄うともなく童の口から、口癖のように唄われるのであった。
 古事に詳しい老人達は、訳の解らないこの詩の意味を、昔に照らして考えては見たがどういう意味だか解らなかった。



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