国枝史郎「善悪両面鼠小僧」(05) (ぜんあくりょうめんねずみこぞう)

国枝史郎「善悪両面鼠小僧」(05)

水の垂れそうな若侍

 細川侯の下邸では、不思議な噂がパッと立った。
「乃信姫君にはこの日頃ちょうど物にでも憑かれた様にうつらうつらと日を暮らされ、正気の沙汰とも見えぬとのこと、不思議なことではござらぬかな」
「夜な夜な若い美しい男がお寝間へ忍ぶと云うことじゃ」
「あまり姫君がお美しいので妖怪《あやかし》が付いたのでござろうよ」
「狐かな? 狸かな?」
「狐にしろ狸にしろ、いやどうもとんだ[#「とんだ」に傍点]果報者だ」
「あのお美しい姫君を、お寝間で占めるとは羨ましい次第」
「狐狸の身分になりたいものじゃ」
「おお新十郎参ったか」
 肥後熊本で五十四万石の大名中での大々名、細川越中守はこう云って、小野派一刀流指南役、左分利新十郎をジロリ[#「ジロリ」は底本では「ヂロリ」]と見た。
「は」と云ったが新十郎、下げていた頭をまた下げる。
「其方《そち》の剣道、霊験あるかな?」
 藪から棒にこう云っておいて、越中守は眼を閉じた。何やら思案に余っていたらしい。
「は、霊験と仰せられますと?」
 新十郎は恐る恐る訊く。
「昔、源三位頼政は、いわゆる引目の法をもって紫宸殿の妖怪を追ったというが、其方の得意の一刀流をもって妖怪を追うこと出来ようかな?」
「は、そのことでござりますか。不肖なれども新十郎、剣をもって高禄をいただき居る身、いかなる妖怪か存じませぬが適《かな》わぬまでも剣の威をもって取り挫ぎます[#「挫ぎます」はママ]でござりましょう。
「おおよく申したそうなくてはならぬ」
「して妖怪と申されますは?」
「いずれは狐狸の類であろう」
「は、左様でござりますか」
「乃信姫の身に憑いたそうじゃ」
「姫君様のお身の上に……」
「毎夜通って参るそうじゃ」
「言語道断、奇怪の妖怪……」
「其方今宵は奥へ参り、姫の寝間の隣室に宿り、妖怪の正体見現わすよう」
「かしこまりましてござります」
「よいか、確《しか》と申し付けたぞ」
「承知致しましてござります」

 下邸の夜は森々《しんしん》と更け、間毎々々の燈火《ともしび》も消え、わけても奥殿は淋しかった。
 一つの部屋にだけ燈がともって[#「ともって」に傍点]いる。
 それは乃信姫の部屋である。
 ボーンとその時丑満《うしみつ》の鐘が手近の寺から聞こえてきたが尾を曳いてその音の消えた後も初夏の風がザワザワと吹く。
 同時に庭に向いた廻廊の戸を、ホトホトホトホトと叩くものがある。
 と、障子に女の影が大きくボッと映ったがやがて障子が音もなく開いて一人の女が現われた。他ならぬそれは乃信姫である。
 姫は廊下へスルスルと出たが、すぐに雨戸へ手を掛けた。スーとその戸が横へ引かれる。
「乃信姫殿か」
「主水《もんど》様」
 内と外とで二声三声。……月代《さかやき》の跡も青々しい水の垂れそうな若侍がツト姿を現わした。鶯谷で姫を救った深編笠の侍である。
 その手を優しく姫が執る、二人はピッタリ肩を寄せ、部屋の内へ入って行く。
 とたんにパチッと鍔音がした。
 ハッと驚いた若侍、思わず一足下った時、
「イヤーッ」と鋭い小野派流の気合。
「む」と若侍は呼吸詰まり、ヨロヨロと廊下へ蹣跚《よろめ》き出た。
「えいッ」と再び掛声あって、隣室の障子を婆裟《ばさ》と貫き閃めき飛んで来た一本の小束! 若侍は束で受けたが切先逸れて肘へ立った。
「あっ」と云う声を後に残し、若侍は雨戸を蹴放し、闇のお庭へ飛び出して行った。

 この夜、与力の軍十郎は、同心二人を従えて二本榎の武家通りを人知れず静かに見廻っていた。
 と、行手から風のように一人の男が走って来た。怪しい奴と眼星を付け、
「待て!」と軍十郎は声を掛けた。
 しかし怪しいその男は見返りもせず走り過ぎる。
「それ方々《かたがた》! 引《ひ》っ捕《とら》えなされ!」
「はっ」と云うと二人の同心、すぐに後を追っかけたが、その男の足の速さ、ものの一丁とは追わないうちにとうとう姿を見失ってしまった。
「はてな?」と軍十郎は呟いた。
「あの姿には見覚えがある」




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