国枝史郎「善悪両面鼠小僧」(06) (ぜんあくりょうめんねずみこぞう)

国枝史郎「善悪両面鼠小僧」(06)

箱根へ行け! 箱根へ行け!

 その翌日の朝であったが、与力中條軍十郎は和泉屋の店先へ遣って来た。
「内儀《おかみ》、いつも景気がよいな」
「これはこれは中條の殿様。どうした風の吹き廻しか、ようこそお立寄り下されました」
 お松はいそいそと手を支えた。
「どうぞお上り遊ばして」
「店先の立話も変なものだな。どれちょっと邪魔しようか」
 座敷へ通って座を構えると、
「次郎吉どん、おいでかな?」
「離れの方に……まだ眠《やす》んで……ホホホ」とお松は笑う。
「白河夜船か。ちと困ったな」
「すぐ起こして参ります」
「少し訊きたいこともあり、少し話したいこともある。それでは呼んで来て貰おうかな」
「かしこまりましてございます」
 間もなく次郎吉は遣って来た。
 白布で右の肘を巻いている。坐るとピッタリ手を支え、
「これはこれは中條様、ようこそおいで下されました」
 そういう声にも元気がない。顔の色も勝れない。
 その様子を鋭い眼で、じっと[#「じっと」に傍点]軍十郎は見守ったが、
「内儀」と云って調子を砕《くだ》き、
「今日はちょっと密談だ。座を外してはくれまいか」
「おやマアさようでございますか」
 軽く受けたが不安そうに、
「どんな内緒のお話やら」
「色話だ。心配せぬがよい。アッハハハ」と洒然として笑う。
「おやおや左様でございますか。それはマア大変でございますこと。ほんにそれでは女房がいてはお話しにくいでございましょう。どれ妾は店の方へ」
 美しく笑って座を外した。
 後には二人差し向かい、しばらく双方とも黙っていたが、軍十郎はややあって一膝々をいざり出た。
「さて和泉屋」と顔を傾げて云い出した。
「私《わし》はお前が賊だと知った。知ったが捕らえるつもりはない。お前の気象が面白いからだ。……ところで私の今日来たのは決して与力としてではない。友人として遣って来たのだ。そこで私は思い切ってお前に一つ忠告しよう。和泉屋お前湯治に行ってはどうだ」
「へ、湯治でございますって?」
 次郎吉は不思議そうに眼を上げた。
「そうさ、その肘の治療にな」
「へえ、なるほど」と上げた眼をまた膝頭へ落してしまう。
「どうだ和泉屋、湯治に行くか」
「行ってもよろしゅうござりましょうか?」
「つまり江戸から足を抜くのさ」
「……でも私がそうなりましたら、旦那の手落ちにはなりますまいか?」
「俺が承知で湯治へ遣るに何で俺の手落ちになる。そんな心配は少しもない。……で、お前はどこへ行くつもりだ?」
「へえ、箱根へでも参りましょう」
「うん箱根か。それもよかろう。……ところで一つ訊きたいことがある」
「へえ、何でございましょう?」
「どうしてお前はああ自由に自分の体を変えることが出来る?」
「ああその事でございますか。これがネタでございますよ」
 云いながら次郎吉は懐中から二つの薬瓶を取り出した。
「何だそれは? 薬じゃないか」
「はい左様でございます。長崎の異人から貰ったところの変相薬にござります。……飲むと同時に神を念じます。……サンタマリヤ! アベ・マリヤ! ハライソ! ハライソ! ハライソと。そうすると姿が変わります」
「それじゃ貴様、吉利支丹《キリシタン》だな!」
「旦那! お縄を戴きやしょう!」
 次郎吉はパッと肌を脱いだ。
 胸に黄金の十字架が燦然として輝いている。
「もうお見遁しはなさるめえ! 旦那、お縄を戴きやしょう!」
「ところが、それが左様いかぬのだ」
 軍十郎は暗然と云った。
「乃信姫君にはご懐胎じゃ! 産み落すまでは姫へも其方《そち》へも指一本さすことならぬ! 箱根へ行け箱根へ行け!」
 十月経つと乃信姫君は因果の稚《こ》を産み落としたが、幸か不幸か死産であった。間もなく乃信姫も世を去られたがそれは自殺だということである。
 それを前後して一人の賊が、軍十郎の手で捕えられたが、実は自首だということである。
 鼠小僧事和泉屋次郎吉。これがその賊の名であった。
「薬を飲んで変相すると、急に悪心が萌しましてね、どうでも悪事をしなければ苦しくて苦しくて居たたまれないのです。所でもう一つの薬を飲んで元の体に返りますと、今度は善心が湧き起こり、他人《ひと》のために慈善をしないとこれ又苦しくて耐らないのです。善と悪との二方面がいつも私の心の中で戦っていたのでございますよ」
 死刑に処せられる前の日に、鼠小僧はこう云って軍十郎へ話したというが、あえて鼠小僧ばかりでなく、あらゆる浮世の人間は、善悪両面の葛藤をもって生から死まで間断なく終始するのではあるまいか。




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