国枝史郎「沙漠の古都」(15) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(15)

        十五

 私はその像を見ているうちに、誰の銅像だか解って来た。すなわちそれは既に死んだ袁世凱の像である。どういう訳で袁爺《えんや》の像が、ここに置かれてあるのだろうかと、私はしばらく考えて見たが、それの解ろう道理がない。袁爺の像はここばかりでなく、十字形をなした長廊下のその真ん中にも置いてあった。廊下の真ん中に置いてある袁爺の像を発見《みつけ》る前に、私は奇怪な地下の館の、あらゆる場所を見歩いたのであった。蜘蛛手《くもで》に延びている無数の廊下! 廊下の左右には室の扉がズラリと一列に並んでいた。私は室の扉を叩いて見た。誰も中から返辞をしない。返辞こそしないが室の中には沢山の人達がいると見えて、賑やかな声が聞こえていた。しかも賑やかなその声は、何かに酔ってでもいるように、濁った、だらしのない喉音《こうおん》である。
 それから私は尚懲りずに、二、三の室の扉を叩いて見たがやっぱり返辞をするものがない。濁った、だらしのない、喉音だけがガヤガヤ聞こえて来るばかりである。一つの室からはハッキリと詩《うた》を唄うのが聞こえて来た。
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古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
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「あの詩をうたっているんだな」
 私は別に気にもかけず、先へズンズン歩いて行った。そして廊下の十字路のその中央に置いてある袁爺の銅像の前まで来て、像を見上げて佇んだ。
 すると、忽然と、像の影から、一人の支那人があらわれた。見れば、意外にも、その男は、金雀子街で姿を見せた、穢い年寄りの苦力《クーリー》であった。今日もやっぱり酔っている。ヒョロヒョロとあぶなそうに歩いている。
「おや!」
 と、私は仰山に、驚きの声を洩らしたのである。しかし老人は見向きもせず、右の方へユラユラと行きかけたが、その時、またも、囁いた。
「ズンズン行くがいいぞ! 張教仁! 左へ左へ左へとな! 突き当りの帳《とばり》をかかげるがいい……」
 云ってしまうと、老苦力は銅像の影へ身を寄せた。ともうどこへ行ったものか、どう見ても姿は見えなかった。
 冒険を覚悟のこの私は、苦力の言葉に従って、左へ左へ左へと、足を早めて歩いて行った。二十分あまりも歩いた時、長い廊下が行き詰まり、そこに一つの室があった。しかも扉は半ば開き、内側に垂れた錦繍の帳の色さえ見分けられた。私は少しの躊躇もせず、グッと帳をかかげると共に、室へスルリとはいったのである。
 ああ、夢のような室の態《さま》よ!
 ほんとに夢のような小さい室! その室を仄かに馨《かお》らせるものは、甘い阿片《アヘン》の匂いである。室を朦朧と照らしているのは、薄紫の燈火である。それは天井から来るらしい。天井から来る薄紫の燈火の光に照らし出されて、幽かに見える一つの寝台。白衣の乙女がその上で、のどかに阿片を飲んでいる。
 乙女の顔を見た時の、私の驚きと喜びとは、筆にも言葉にも尽くされない。乙女は尋ねる紅玉《エルビー》であった。……私は寝台に走り寄った。そして紅玉《エルビー》を抱きしめた。
「お前は紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》!」
 私の洩らした言葉と言えば、たった二言のこれだけであった。これだけを洩らすと私の眼から滝のように涙が流れ出た。
 すると、彼女は――紅玉《エルビー》は、眠げにその眼をひらいたが、私の顔をじっと見て、そして異様に微笑した。それからまたも眼を閉じたが、やがて静かに語り出した。夢見るようなその言葉つき……。
「……私あなたを知っています。張教仁さんね。そうでしょう……かすかに覚えておりますわ。沙漠であなたと逢ったことも! そして、そうそう、金雀子街で不意にあなたと別れたことも――遠い遠い昔のことよ! 五年も十年も二十年も――そして私はその頃は、あなたを愛しておりましたわ! そして、あなたも、私をね……でももう駄目よ! そうでしょう! 私は他人の物ですもの。ですから二人は諦めて赤の他人になりましょうね……泣いては厭よ、ねえあなたや……それよりも阿片でも飲みましょうよ。阿片を飲んで、飲んで、飲んで、涙を忘れましょうね」
「紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》! お前は阿片に酔っているよ! お前の本心は麻痺している! それとも本当に無垢のお前を、穢した人間があるというなら、そいつを私に明かしておくれ! そうだ、そいつを明かしておくれ!」
 私はほとんど半狂乱のうろうろ声で云い迫った。
 しかし紅玉《エルビー》はそう云われても、尚譫言《うわごと》をつづけるのであった。



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