国枝史郎「沙漠の古都」(16) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(16)

        十六

「きっとあなたは知っていらっしゃるわね。近頃北京《ペキン》から田舎まで、妙な詩《うた》が流行《はや》っているでしょう。あの詩の意味を知っていて? 『古木天を侵して日已に沈む』こう真っ先にあるでしょう。あの意味はこうよ、こうなのよ――天のように偉かった支那の国に、古い大木が蔓延《はびこ》って、支那の国を蔽うたので、日光を透すことが出来なかった。そのうちにその日が沈んでしまった。つまり日というのは文明のことよ……『天下の英雄寧ろ幾人ぞ』こうその次にあるでしょう。この意味は読んで字の通りよ。つまりそうなった支那の国には、英雄などというものは、一人もないと云っているんだわ。『此の閣何人か是れ主人』これが三番目の文句ですわね。閣というのは他でもない、地下に出来ている館のことよ。私達のいるここのことよ。そうしてここは阿片窟よ。阿片窟ではあるけれど、同時にここは秘密結社の一番大事な本部なのよ。こういうとあなたは訊くでしょう。いったい何の秘密結社かってね。私教えてあげますわ。世界征服を心掛けている恐ろしい秘密の結社ですの……そして結社の首領というのは――そうよ、結社の首領というのは、大変偉い人ですの、私をここへ呼び寄せたのも秘密結社のその首領よ――そして私はその人に、愛情を捧げておりますの!」
「いったいそいつは何者だ! いったいそいつはどこにいる!」私は思わず怒鳴りつけた。それほど紅玉《エルビー》の譫言《うわごと》は私の心を傷つけたのであった。
 すると彼女は同じ調子で、私にそれを物語った。
「あなたはその人を知っている筈よ。少くもあなたはその人の銅像を知っている筈よ」
「銅像だって※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どんな銅像?」
「廊下に立っていたでしょう」
「あれは袁世凱の銅像だ!」
「昔はそういう名でしたわね」
「袁世凱は、とうの昔、この世から死んでしまった筈だ!」
「世人はそう云っていますけれど、ほんとは生きているのですよ」
「夢だ夢だ! くだらない、夢だ!」
「いいえそんな事はありません! いいえそんな事はありませんわ!」
 私は怒って烈しい声で、紅玉《エルビー》を叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]しようとしたが、しかしそれは不可能であった。何ぜかというにその一刹那、遙かに遠く警笛の音が地下室の静寂を破ったからで。続いて二笛! また三笛! 忽ちどよめく声がする。怒声、哀願、女の泣き声……それから拳銃の鋭い音! 剣の鞘のガチャつく音! 警官が襲い込んだらしい。
 私は一言も物を云わず、紅玉《エルビー》を肩に引っ担いだ。それから室を走り出た。長い廊下を一散に、右へ左へ走り廻る。カッと燃え上がる火の光が、行手の廊下を隘《ふさ》いでいる。地下室は焔々と燃えているらしい。煙りに咽せて私は思わず廊下へ倒れようとした。その時私を呼ぶ者がある。
「左手の壁のボタンを押せ! そこから上へ登って行け! 躊躇せず走れ張教仁!」
 私はハッと刎ね起きて、声のする方へ眼をやった。煙りに包まれ火を踏んで、一人の支那人が立っている。両手に二挺の拳銃をもち、正面を睨んだその姿! それは意外にも金雀子街と、銅像の前とで邂逅した、穢い老人の苦力《クーリー》であった。しかし姿は苦力であるが、付け髯と付け眉とをかなぐり棄てた、生地《きじ》の容貌をよく見れば、思いきや、それは、羅布《ロブ》の沙漠で、私が裏切って捨てて逃げた、西班牙《スペイン》の花形、ラシイヌ大探偵! 私に何んの言葉があろう! ただもう恥じ入るばかりである。やにわに私は頓首した。それから左手の壁を見た。はたしてボタンが一つある。そいつを押すと、壁の一部が、そのまま一つの扉となり、ギーと内側へ開いた隙から、紅玉《エルビー》を抱えて飛び込むと、扉はハタと閉ざされた。
 暗中にかかった階段を、私は紅玉《エルビー》を抱えたまま、上へと、命の限りに登って行った。
 こうして階段を行き尽くし、ようやく地上へ出て見れば、そこは案外にも金雀子街の、他人の家の庭の空井戸であった。そしてもう夜は明けていた。……(備忘録終り――)

 その翌日のことである。中華民国警務庁の、保安課の室に十四、五人のかなり重大な人々が、ラシイヌ探偵を取り囲んで、じっと話に聞き惚れていた。
「……まあそう云った塩梅《あんばい》で、いろいろ研究をした結果、形の見えない何者かが形の見えない糸をもって引っ張って行くという、その事実は、催眠術に過ぎないと、このように目星をつけてからは、その方針で進みました。ところがはたしてある晩のこと、金雀子街を歩いていると、貴公子風の支那青年と、土耳古《トルコ》美人とが月に浮かれて、向こうから歩いて来ましたが、二人のうちのどっちかが暗示状態に落ち入っていると、早くも私は見て取ったので、何気なく警告を与えました。それというのも、その貴公子を私が知っていましたからで。するとはたして土耳古《トルコ》美人が、ものの三十歩ほども歩いた頃、例の調子で、例のように、走り出したというものです。驚いて貴公子は追って行く。もちろん私も追って行く。貴公子は中途で倒れましたが私は最後まで追いかけました。するとどうでしょうその美人は、北京《ペキン》中散々駈け廻った後、やっぱり同じ金雀子街へ帰って来たじゃありませんか。そうして、その街の街端れの、陶器工場の廃屋の中へ走り込んだという訳です。私もそこまで行きました。忽ち地上へ穴が開く、地下室へ通う階段がある、それを二人は下りました。すると恐ろしく広い立派な阿片窟へ来たというものです。私はいろいろ調べました。その阿片窟の設計図さえ私は手に入れたというものです。そして阿片窟の経営者が誰であるかを突き止めました。袁更生という男です。そして自分では袁世凱の後身だと云っているのです。そして世界の各国へ阿片窟の支部を設立し、世界中の人間を堕落させて、そして自分が全世界を征服するのだなどと高言して、愚民を騙《たぶら》かしていたそうです。それほど大がかりの阿片窟が、どうして今日まで知れなかったかというに阿片窟へ出入りする人間を、よく吟味して加入させたからで、今云った首領の袁更生が例の催眠術で誘拐して来ても、途中でその人間の強弱を試し、臆病な奴はそのまま途中で、自己催眠で自殺させ、街路で容捨なく捨ててしまい、大胆な者だけを連れて来たので、秘密が保たれていたのです」
 ラシイヌ探偵は云ってしまうと、葉巻を出して火を点けて、さも旨そうにふかし出した。
「残念な事には」とラシイヌはちょっと片眼をひそめたが、「かんじんの首領の袁更生だけを、まんまと取り逃がしてしまったので、こいつは私の失敗でした」
 こう云ってニヤリと苦笑した。



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