国枝史郎「沙漠の古都」(18) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(18)

        十八

 あるいは「東洋の紐育《ニュウヨーク》」もしくは「東洋の桑港《サンフランシスコ》」――こう呼ばれている上海《シャンハイ》も、昔ながらの支那街としての県城城内へ足を入れれば、腐敗と臭気と汚穢《おわい》とが、道路《そと》にも屋内《うち》にも充ち満ちていて、鋭い神経を持った人は近寄ることさえ忌み嫌った。
 そういう不潔の城内を差してラシイヌは歩いて行くのであった。しかしラシイヌは目的地へすぐに行こうとはしなかった。彼は自分のいる英租界を、黄浦河に沿って悠々と、仏租界の方へ歩いて行った。彼の道順には租界中での一番賑やかな街筋が――すなわち黄浦河の岸上の街《まち》と、蘇州渓の街とが軒を並べ、街路整斉と立っている。街には人が出盛っていた。馬車、自動車は鈴を鳴らし、広い車道を馳《はし》って行く。三層五層の大厦の窓は、悉《ことごと》く扉を開け放され忙しそうに働く店員達の小綺麗な姿が見えている。上海棉花公司とか、広徳泰軋《れき》花廠とか、難解の文字の金看板が、家々の軒にかかっていて、夕陽にピカピカ光っている。九江路《キウキャンルー》を右に曲がり、福建路《フウキンルー》を行き尽くし、それから初めて仏租界へ、ラシイヌはゆっくり足を入れた。
 英租界の繁華に比較しては、仏租界の方はやや寂しく、その代り上品で粋であった。紳士と連れ立った淑女達や、大きな金剛石《ダイヤ》の指輪を飾った俳優じみた青年や、翡翠《ひすい》の帽子を戴いて、靴先に珠玉《たま》をちりばめた貴婦人などの散歩するのに似つかわしい街の姿である。
 ラシイヌは静かに歩きながらも、左右に鋭く眼を配って、全身の注意を耳に蒐《あつ》め、ある唄声を聞こうとした。しかし唄声は聞こえない。足音や話し声や笑い声や、器物の動く音などは、行く先々で聞こえてはいたが、聞こうと願う唄はどこからも聞こえては来なかった。ラシイヌは仏租界を歩き尽くし、しばらくそこで躊躇したが、やがてグルリと大迂回をして米租界の中へ進んで行った。
 仏租界ほどの品もなく、英租界だけの規律もなく、ただ米租界は紛然として、繁昌[#「繁昌」は底本では「繁晶」]を通り越して騒がしかった。街々を歩いている人々には、印度《インド》人もあれば、土耳古《トルコ》人もある。煙草《たばこ》ばかり吹かしている洪牙利《ハンガリー》人や、顔色の黒いヌビヤ人や、身長《せい》の高くない日本人や、喧嘩早い墨西哥《メキシコ》の商人などが、黄金《かね》の威力に圧迫され、血眼《ちまなこ》になって歩いている。各国の領事館や銀行の立派な建築《たてもの》が街々に並び、倉庫、桟橋、郵便局などが、到る所に並んでいる。上海の本当の持ち主の支那の商人は米租界でも最も狡猾なるあきゅうどとしてどこへ行ってもうよついている。
 ラシイヌはゆるゆる歩きながら、左右の光景を眼で眺め、湧き起こる音響を耳で聞き、先へ先へ進んで行った。
 しかしやっぱり聞きたいと願う、その唄声は聞こえなかった。こうして彼は米租界をも、失望をもって通り過ぎた。そして今度は足を早めて、いよいよ目的の県城の方へ、彼はズンズン進んで行った。
 街《まち》は次第に寂しくなる。そして道路の不潔さは、ラシイヌの眼を顰《ひそ》めさせる。
 城内と城外とを距てている城壁の前まで来た時に、いつもながら彼は感嘆してしばらく立って眺めていた。城壁の周囲三十支那里、磚瓦《せんが》をもって畳み重ね、壁の上には半町ごとに厳しい扶壁が作られている。長髪賊の乱の時初めて備えられた大砲が、扶壁に残ってはいるけれど、ほとんど使用に堪えないまでに青黒く砲身が錆びている。城壁に沿うて丈なす草が、人に苅られず生い茂り、乏しい紅白の草花が咲いているのも野趣がある。昔、戦国の世の時代に、養う食客三千人と、世上の人に謳《うた》われた、春申君と申す人の、長く保った城である。城には七つの郭門《もん》がある。郭門《もん》は城内の旧市街にいずれも通じているのであって、道台衙門のある所はすなわち東大門内である。知県衙門のあるところは小東門内の中央である。
 日没を合図に内外の市街《まち》は――県城内の旧市街と県城外の新市街とは、交通を遮断する掟《おきて》であってその日没も近づいているので、ラシイヌは郭門の一つから城内へ急いではいって行った。城内の街の狭隘《せま》さは、二人並んで歩くことさえ出来ぬ。凸凹の激しいその道には豚血牛脂流れ出しほとんど小溝をなしている。下水の桶から発散する臭気や、葱《ねぎ》や、山椒《さんしょう》や、芥子《けし》などの支那人好みの野菜の香が街に充ち充ちた煙りと共に人の嗅覚を麻痺させる。小箱のような陋屋《ろうおく》からは赤児の泣き声や女の喚き声や竹の棒切れで撲る音などが、巷に群れている野良犬の声と、殺気立った合唱《コーラス》を作っている。
 街には人が出盛っていて、あっちでもこっちでも支那人らしい誇張した声音と身振りとで「負けろ」「まけない」の掛け合い事――つまり、商売をやっている。誰も彼もみんな忙がしそうだ。そういう忙がしい人達を縫って、さも隙そうな若者どもが、小唄を唄いながらぶらついている。仔細に見るとそれらの者はいずれも逞《たくま》しい体をした働き盛りの若者である。しかも彼らは働こうともせず、唄を唄って歩いている。彼らのうたうその唄こそは、ラシイヌの聞きたがっている唄である。
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古木天を侵して日已に沈む
天下の英雄寧ろ幾人ぞ
此の閣何人か是れ主人
巨魁来巨魁来巨魁来
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 この唄をうたうに若者どもは「巨魁来巨魁来巨魁来」と、最終の一連に力をこめ、いかにも今にもその巨魁がどこからか堂々と乗り込んで来て、姿を現わすのを待っているかのように、勢い込んで唄うのであった。
 ラシイヌはゆるやかに歩みながら、捨て目捨て耳を働かせて、彼らの様子を窺った。そうして心で罵った。
「フン、いくらでも唄うがいい、巨魁来巨魁来巨魁来か! どんな巨魁だかこの俺にはちゃあんと解っておいで遊ばすのだ。どんな野郎が来たところでこの鼻ちゃんは驚かない。どんな野郎でもとっ捕えて見せる。俺達の目的を妨げる奴は張三李四のお構いなく地獄の釜の中へたたき込んで見せる?」
 ラシイヌはそれから尚しばらく、城内をブラブラ彷徨《さまよ》ってから、黄浦河の岸へ出て行った。
 県城とそして三つの租界を、東の岸に立たせたまま北へ流れる黄浦河は、水こそ黄色に濁ってはいるが、その河幅は二百間、無数の商船や軍艦や支那船《サンパン》を満々たる水に浮かべ、揚子江に向かって流れている。目星い大きな工場は、いずれも河の東岸にあって、巨大の煙突、急傾斜の屋根が、空を蔽うて林立し、重い起重機を動かす音や猛獣のような汽笛の音や、のんびりした支那流の掛け声などが、煤煙《ばいえん》の空に響いている。オリエンタル船渠《ドック》の工場からは鉄槌の音が聞こえてくるし、対岸に孤立して立っている董家造船所のドックからは汽罐の音が聞こえて来る。
 ラシイヌは河岸を米租界の方へ耳を傾《かし》げながら歩いて行った。そのうちに焼け爛《ただ》れた砲弾のような太陽がグルグル廻りながら、平野の地平《はて》へ没してしまって、間もなく四辺《あたり》は暗くなった。遙か県城の方角に当たって、関門を鎖ざす軋り音が、一日の終りを告げるかのようにさも重々しく響いたが、その音と一緒に諸所の工場から蟻の群でも出るように職工達が現われた。疲労《つか》れた声音で挨拶をしてちりぢりに四方へ散って行く。その後は森然《しん》と静まり返り夜業をすると見えてある工場の、二つの窓から火の光が戸外にカッと洩れて来るのさえかえって寂しく思われた。
 四辺《あたり》は森然と静かである。
 その時、ラシイヌが歩いている河岸の下の水面から、元気のよい唄声が聞こえて来た。それは、やっぱりあの[#「あの」に傍点]詩である。
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古木天を侵して日已に沈む
…………
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
[#ここで字下げ終わり]
 ラシイヌはちょっと眉をひそめ、足下の水面をすかして見た。巨大の支那船《サンパン》が浮いていて、燈火《あかり》も点《つ》けてない船の中で、二、三十の人影がボンヤリとうごめいているのが眼に付いた。ラシイヌの心臓は動悸を打ち、その眼は急に見開らかれた。彼は楊柳の蔭へこっそり姿をひそませて、じっと様子を窺った。船中の唄声はやがて絶えて、また四辺は寂静《ひっそり》となった。すると今度は反対の岸――二百間あまりもかけ隔てた対岸《むこうぎし》の方から幽《かす》かに幽かに同じ唄声が水を渡ってラシイヌの耳へまで聞こえて来た。やがてその詩も途絶えたが、詩の途絶えた方角から、青色の光がただ一点、闇の中へポッツリ浮かび出た。あたかも人魂が迷うようにその青色の燈の灯《ともしび》は、右に左に静かに動くとまた闇の中へ消えて行った。すると、今度は、彼の足もとの、支那船《サンパン》の中から同じような青色の燈火《あかり》が浮かび出たが、空中で五、六回揺れた後でそのままフッと消え去った。
「フフン、何かの合図だな」
 楊柳の蔭でラシイヌは思わずこのように呟いて尚もそのまま彳《たたず》んで、支那船《サンパン》の様子を窺った。
 すると支那船は動くともなく、幽かに船体を動かした。闇の河面《かわも》が静かに動いて、一町あまり隔たっている小さい桟橋の方角へ、人眼を忍ぶように辷って行く。
 そうして桟橋へ着いた時、船の中にいた支那人どもは、一人一人桟橋へよじ登った。二十人あまりの人影が、墨のように橋の上へ塊《かた》まった時、一個《ひとつ》の大きな黒い箱が船の中から持ち上げられた。桟橋の上の人影が、揃って前へ手を突き出し、その黒い箱を受け取った。するとまたもや船の中から、ゾロゾロ人影が現われて桟橋の上へよじ登ったが、一個の箱を肩に支え、その箱をみんなで取り巻いて、神前へ捧げる御輿《みこし》のように、敬虔《けいけん》な態度で歩いて行く。
「さあどうもこいつは解らない」
 ラシイヌは胸へ腕を組んで、渋面を作って呟いた。それから楊柳の蔭を出て、御輿の後を追いかけたが、思い出して腕時計を眺めると、彼は追うのを中止した。
 もう十分で八時である!
 彼は御輿と腕時計とを代わる代わるに見比べてしばらくじっと考えていたが、決心がついたというように、グルリと体の方向を変え、大速力で走り出した。
 公園へ向かって走るのである。
 黄浦河とそして呉松《ロウソン》江とが、相合流する一角に、居留地の公園は立っていた。北と東が水に臨み、西が英租界に向いている。水に向かった園内の芝の丘に、音楽堂は立っていた。眩《くらめ》くばかりの電燈が、楽堂の周囲《まわり》に照り渡り、そこへ集まった聴衆のほくろさえ鮮かに見えるほどである。



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