国枝史郎「沙漠の古都」(19) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(19)

        十九

 もう已《とう》に音楽は始まっていた。それは伊太利《イタリア》の音楽隊で、モールをちりばめた服装から指揮者《コンダクター》の風姿《スタイル》から、かなり怪しげな一団であったが、「伊太利人」という吹聴のためか、聴衆《ききて》は黒山のように集まっていた。聴衆は全部欧羅巴《ヨーロッパ》人で支那人は一人もいなかった。それは公園の入口に「華人不可入」と書いた建札が、厳めしく立っているからだ。
 ラシイヌは聴衆の間に交って、彼の鋭い観察眼であたりを静かに見廻した。「描かざる画家」ダンチョンを発見《みつけ》出そうためである。ダンチョンの姿はラシイヌの左手、十間ほどの彼方にいた。新しい帽子に白のネクタイ、思い切ってめかしたその姿は、ラシイヌには滑稽に思われた。性来どこかにおかしみを持った田舎者じみたダンチョンが、神経質な眼付きをして、音楽などはうわの空で、例の美人を発見《みつ》けようと、四辺をキョロキョロ見廻す様子は、それは全く珍であった。
 ラシイヌはおかしさを堪えながら、ダンチョンの様子を見守った。
 その時、きょとついたダンチョンの眼がある一所《ひとところ》に据わったので、ラシイヌは「オヤ」と呟きながら、その方角へ眼をやった。はたしてそこには婦人がいた。すなわち楽堂の柱に寄って、黒い面紗《ヴェール》で顔を隠した水色の服の欧州美人が、スラリと彳《たたず》んでいるのであった。
「おや」とラシイヌは婦人を見ると、またも思わず呟いた。というのは面紗《ヴェール》のその女が確かに見覚えがあるからであった。
「ハテナ、いったいあの女とどこで知人《しりあい》になったろう?」
 ラシイヌは一瞬間心の中で記憶の糸を手繰《たぐ》ったけれど思い出すことが出来なかった。
 その間も楽堂の舞台では、拙《まず》い音楽が続けられていた。そして聴衆《ききて》は根気よく静かに耳を傾けている。
 しめやかな、静かな、いと平和な、異国情緒の光景である。
 ラシイヌは尚も眼をそばだて、面紗の女とダンチョンの様子を代わる代わるに眺めやった。そして怪しい素振りでもあったら、追っ駈けて行こうと用意した。
 するとその時、どこからともなく、獣の鳴き声が聞こえて来た。「キキーキキー」と鋭い声! 音楽に夢中の群集達は、鋭い獣の鳴き声に注意しようともしなかった。静かに音楽を聞いている。一人の面紗《ヴェール》の女だけがその鳴き声を聞くか否や、烈しく体を顫《ふる》わせた。そして獣の鳴き声に促がされでもしたように、急にスルスルと、群集を分けてダンチョンの方へ近寄った。
 面紗《ヴェール》の女とダンチョンとはそのまま体を寄せ合って聴衆の圏から出ようとした。それと見て取ったラシイヌは、これも素早く聴衆を分けて燈火《あかり》の明るい広場へ出た。そうして真っ直ぐに前方を見ると、面紗の女とダンチョンとが木立の繁った暗所《くらがり》の方へ、側目《わきめ》もふらず歩いて行く。程よい間隔を中に保って、ラシイヌはその後を追って行った。
 鋭い獣の鳴き声は――それは猩々《しょうじょう》の鳴き声であるが――樹立《こだち》の彼方《かなた》、鉄柵の向こうの公園の外の人道から、またもその時間に聞こえて来た。面紗の女とダンチョンとはその鳴き声に導かれるように公園の裏門を辷り出た。そして人道を南の方へ足を早めて走って行く。三度も四度も行手の方から猩々の鳴き声が聞こえて来る。ラシイヌはこれも駈け足で二人の後を追っかけた。
 こうして幾分走ったろう? 暗い大きな建物の蔭から、獲物を狙う豹のようにひらりと走り出た支那人がある。血気盛んの若者らしく筋骨なども逞しく、走って行く脚も軽々と、二人の男女を追って行く。
 ラシイヌはちょっと驚いて、その支那人を見詰めたが、
「ほほう、彼奴か、あの男か!」
 思わずもこう呟いた。こう呟いたそれと同時に、面紗の婦人の何者であるかを、閃めくように理解した。
 面紗《ヴェール》の女とダンチョンとは、次第に速力を速め出した。まるで舞うように走って行く。二人の走るのを誘うかのように、幾度も幾度も猩々の声が行手の方から聞こえて来た。その鳴き声は、不思議なことには、手近の所から聞こえることもあり、遙かなあなたから来ることもある。
 疲労《つかれ》を知らないラシイヌの体も、さすがにいくらか疲労《つか》れて来た。しかし、もちろん、この追跡を止めようなどとは思わなかった。彼らの走るに従って彼も風のように走って行った。
 こうしてどれだけ走ったろう? 黄浦河の河上に浮かんでいる、無数の商船や帆船の、マストや煙突が遙かあなたにボンヤリ聳《そび》えて見える所――その辺は闇のように暗かったが――そこまで一団が来た時に思いもよらない活劇が、電光《いなずま》のように湧き起こった。



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