国枝史郎「沙漠の古都」(20) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(20)

        二十

 ちょうどそこまで来た時に、支那青年は走り寄り、さも憧憬に耐えないように、また心配に耐えないように、何か一声叫びながら面紗《ヴェール》の女を引っ抱え、その口に烈しくキッスをした。すると女は驚きのあまりあたかも気絶したように――見ようによっては悪夢から醒めて傍らの保護者に縋りついたかのように、支那青年に抱えられたまま微動をさえもしなくなった。驚いたのはダンチョンで、彼は甘い自分達の恋を妨げられでもしたかのように、平常《いつも》の彼に似もやらずやにわに拳を揮り上げて支那青年に跳び掛かった。こうしていまにも二人の間に格闘が演ぜられようとした時に、鋭く咆哮する猩々の声がすぐ耳もとで聞こえて来た。
 と、闇の中からムラムラと二、三十人の人影が現われて、三人を中に取り込めた。そしてその時走り寄ったラシイヌをさえも包囲した。
 こうしてそこに訳の解らない争奪戦が行われた。
 二、三十人の人影は一言も物を云わなかった。彼らは一切無言のまま彼らの仕事を続けて行った。支那青年の腕の中から彼らは女を奪い取った。怒って飛びかかる青年を、五、六人がかりで押さえつけた。その時大きな真っ黒の箱が彼らによって運び出され、面紗《ヴェール》の女は彼らの手でその箱の中へ入れられた。それと見たダンチョンはその箱へ飛鳥のように飛びかかった。すると彼らは十人あまりでダンチョンを箱から引き離した。その拍子に箱の蓋《ふた》が取れた。と、見よ! 箱の内部には、仔牛ほどもある猩々が、堅く鉄鎖で縛られながら、気絶したまま倒れている面紗の婦人の枕もとに居然と坐っているではないか!
 蓋はすぐに蔽われた。その箱を彼らは引っ担ぎ、黄浦河の方へ走って行く。往来に無残に打ち倒された支那の青年はそれを見ると、よろめきよろめき立ち上がったが、
「紅玉《エルビー》、紅玉《エルビー》、おお紅玉《エルビー》!」
 こう叫びざままた倒れて、そのままぐったり動かなくなった。どうやら気絶したらしい。気絶した彼のすぐ傍《そば》には、これも気を失ったダンチョンが、無態《ぶざま》の姿《なり》をして倒れている。
 さて、ラシイヌはどうしたろう? 彼もやっぱり気絶して往来の上に倒れていたが、しかし彼の気絶だけは本当の気絶ではないのであった。彼は不思議の一団が黒い箱を担ぎ出すと見るや否や、彼らの様子を探るため故意《わざ》と彼らに乱打されて地上へ倒れてしまったのであった。で彼は、彼らが立ち去ったと見るや忽然と往来へ立ち上がった。そして一瞬の躊躇もせずダンチョンの側へ駈け寄ったが、危険がないと見て取ると、支那青年の側へ走って行って、その耳もとへ口を当て、「オイ、しっかりせい張教仁!」と大きな声で呼ばわった。そうして青年の手を取ってその脈搏をしらべて見た。脈は幽《かす》かに搏《う》っている。
「まずまずこれも危険はない」
 ラシイヌは呟いて立ち上がり、ほんの一瞬考えたが、次の瞬間には足を早めて、黄浦河の方へ走って行った。

 黄浦河の岸まで来た時にラシイヌは木蔭に身を隠し、驚異の瞳を輝かせて河中の奇蹟を凝視した。
 水面には支那船《サンパン》が浮かんでいる。その甲板には柩のような例の黒箱が置いてある。それを囲んで群像のように彼らの一団が彳《たたず》んでいる。船尾には血のような火光を放す燈火《あかり》が一つ据えてある。彼らは寂然と静まり返り、河の下流へ眼を注いで何物かを待っているらしい。遙か彼方の対岸の方にも血のように赤い燈光がさも物凄く点っている。その物凄い燈光とこっちの赤い燈光とは合図し合っているらしい。
 四辺《あたり》は寂然《さびしく》ひそまり返り、諸所《あちこち》の波止場《はとば》や船渠《ドック》の中に繋纜《ふながか》りしている商船などの、マストや舷頭に点《とも》されている眠そうな青い光芒も、今は光さえ弱って見えた。どこやらの時計台で幽《かす》かに午後九時の時刻《とき》を報じている。
 支那船《サンパン》の中の一団は依然として静かで無言である。やっぱり下流を眺めている。木蔭に隠れているラシイヌも位置から動こうともしなかった。彼らの様子を眺めている。
 こうして幾時間経たろうか、時計台の時計はその度ごとに陰気な音を響かした。こうして時計が午前三時を物憂く三つ打ち終えた時、下流の方から闇を分けて一隻の船があらわれた。小型ではあるがその代わり速力の速やそうな商船《ふね》である。その商船の速力はやがて徐々に緩るくなった。緩るい船脚を続けながら支那船《サンパン》を凌《しの》いで行き過ぎたが、ほんの五、六間行き過ぎた時一つの不思議が行われた。と云うのはそれは他でもない。その商船が進むに連れて支那船も静かに動き出し、商船の船腹へ近付いて行く。しかも二隻の支那船が、すなわち、先刻まで遙か彼方に、燈火ばかりを見せていたその支那船も近付いて行く。
 二隻の支那船《サンパン》が商船の腹へピタリと横付けにくっつくや否や素早く縄梯子は投げられた。猿のような早さでその商船へ彼らの一団は乱れ入った。
 忽ち起こる怒号叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]! 七、八発の拳銃《ピストル》の音! 入り乱れて闘かう人の影! 五分足らずの格闘で掠奪戦は終局した。珠数繋ぎにされた船員が甲板の上に倒れている。それらを眼下に見おろして、大勢の部下に囲まれながら、白髪の貴人が立っている。部下達の翳《か》ざす燈火の光で、その風采が鮮かに見える。丸龍を刺繍した支那服を纒い、王冠を頭に戴いている。小肥《こぶと》りの体にやや低い身長《せい》。鋭い眼光に締まった口。ああそれはかつての大統領、またそれはかつての支那の皇帝、袁世凱《えんせいがい》の姿ではないか!
 商船は船尾を翻《ひるが》えした。そして異常の速力で元来た方へ引き返した。こうして一隻の運送船は闇に姿を隠したのである。
 程経て水上を巡邏している水上警察署のモーターが何気なくその辺へ差しかかった時、主のない二隻の支那船《サンパン》が波に漂々浮いているのを不思議に思って調べて見たが、目ぼしい物は何もなかった。もちろん例の黒い箱も、もはやそこにはなかったのである。



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