国枝史郎「猿ヶ京片耳伝説」(04) (さるがきょうかたみみでんせつ)

国枝史郎「猿ヶ京片耳伝説」(04)

    風呂の中の人形

「泥棒に!」
 と、脅《おび》えたような声で云ったのは佐五衛門であった。でも、すぐに幾度も頷き、
「無理はない。次から次と、ひどい目にあわされれば、どんな人間だろうと……」
「おおご主人もそうお思いか」
 と、云ったは、易者《うらない》という触れ込みの男であったが、
「それで安心」
 と口を辷らせたように云い継ぎ、ハッとしたように、急に黙ってしまった。この時深い谷の方から鋭い笛の音が一声聞こえて来た。
「何んだろう」
 と云ったのは、佐五衛門であった。
「季節《しゅん》違いだから鹿笛じゃアなし。……呼笛《よびこ》かな」
 首をかしげ、眉と眉との間へ皺をたたんだ。
 お蘭は立ち上がった。
「どこへ行くんだえ」
「お湯へはいって、それから寝るの」
「こんな晩は早く寝た方がいいなア」
 五人の湯治客も、今の笛の音に不審を起こしたらしく、黙って顔を見合わせ、耳を澄ました。

 お蘭は湯に浸《つ》かりながら空想にふけっていた。
(あたしは男に憎まれたり、大事な男の心を、女を憎むようなひねくれた心になんかしやしない)
 そんなことを空想していた。大事な男というのは、一ヵ月先になると自分の良人《おっと》となるべき、布施屋《ふせや》の息子のことであった。
(進一さんだって、わずかな金――小判一枚のゆきちがい[#「ゆきちがい」に傍点]ぐらいで、人を叩き倒すような兇暴《あら》い性質《たち》の人じゃアないから安心だわ)
 彼女にはさっきの湯治客の話が、やはり心にかかっているのであった。
 この湯殿は主屋《おもや》と離れてたててあり、そうして主屋よりひくくたててあった。それで二十段もある階段が斜《はす》に上にかかって、その行き詰まりの所に出入り口があり、そこに古びた長方形の行燈がかけてあった。それでこの十坪ぐらいしかない湯殿は、ほんのぼんやりとしか明るくなかった。湯槽《ゆぶね》の広さは三坪ぐらいでもあろうか、だから高い階段の一番上に立って、湯に浸かっているお蘭を見下ろしたなら、薄黄色い行燈の光と、灰色の湯気とに包まれた、可愛らしい小さい裸体《はだか》の人形が、行水でも使っているように見えたことだろう。明礬質《みょうばんしつ》のこの温泉《いでゆ》は、清水以上に玲瓏としていて、入浴《はい》っている人の体を美しく見せた。胸が豊かで、膝から下の足が素直に延びているお蘭の体は、湯から出ている胸から上は瑪瑙色《めのういろ》に映《は》えていたが、胸から下は、白蝋《はくろう》のように蒼いまでに白く見えていた。お蘭は時々唇をとんがらせ、顔を上向け、眼の辺へかかって来る、絹糸のような湯気を吹き散らした。フーッと音を立てて吹くのであった。その動作は、罪のない子供の、屈托のない動作そのものであった。
 フーッとまた吹いた。そうして笑った。
 と、その時背後《うしろ》の方で物音がした。お蘭は振り返って見た。頬冠りをした一人の男が、階段の下に、行燈の光を背にして立っていた。
「まあ」
 とお蘭は云った。
「それ妾の着物よ。どうするのさ」
 男女混浴の湯殿へ、男がはいって来るに不思議はなかったが、その男が、衣裳棚の中へ脱ぎ入れてあったお蘭の着物を抱えていたので、そう云ったのであった。男は着物を棚の中へ返した。
「お湯へはいったらどう」
 とお蘭は云った。
「お客様ね、何番さん?」
 しかし男は返辞をしないで、暗い頬冠りの中から刺すような眼でお蘭を見詰めた。
「おかしな人ね。……何番さんだったかしら? ……お湯へおはいりなさいよ」
 そういうとお蘭は、背中を湯面《ゆおもて》へ浮かせ、蛙泳《かわずおよ》ぎをして湯槽《ゆぶね》の向こう側へ泳いで行き、振り返るとぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を湯槽の縁へかけ、フーッと、唇をとんがらかして湯気を吹き、男と向かい合った。
「おかしな人ね、棒ッ杭のように突っ立ってるってことないわ。……わかった、あんた恥ずかしがり屋さんね、女の子と一緒にお湯へはいるの恥ずかしいのね。……大丈夫、あたしかまやア[#「かまやア」に傍点]しないことよ。……おはいりなさいよ。フーッ」
「はいってもいいかい」
 と男ははじめて云った。その声は深みのある、また濁りのある、聞く人の心をゾッとさせるようなところのある声であった。しかも四辺《あたり》を憚るように、押し殺した声であった。





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