国枝史郎「沙漠の古都」(26) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(26)

        二十六

(張教仁備忘録)……どこから私は書いて行こう? 私の頭は乱れている。何んと云って私は説明をしよう? 私は全く五里霧中だ……ラシイヌ探偵の親切で一旦奪われた紅玉《エルビー》を阿片窟から奪い返して燕楽ホテルへ連れ戻ったのもほんの一時の喜びであった。ある日私の目の前で彼女は窓から飛び出して再び行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましてしまった。袁更生の邪教に誘われてふたたび犠牲になったのだ。それからの私は狂人であった。袁更生の行衛を追って北京《ペキン》から上海《シャンハイ》へ下って来たのも紅玉《エルビー》を取り返したいためであった。しかしどのように探しても紅玉《エルビー》の行衛は解らない。私はとうとう諦らめて南洋に向かって去ろうとした。宝庫を探しに行こうとした。私は費用を使い果たしてこの時全くの無一文であった。そこで私はいろいろに考え私のいつもの十八番の手で南洋航路の英国船の料理人として雇われた。明日はいよいよ出航というその前の日の宵の中を私は公園の柵の外の海岸通りを歩いていた。公園の中の楽堂では管の音が聞こえている。青葉を渡る風の音が公園の並木に当たっている。大変和やかな夜であった。私は何気なく前を通ると面紗《ヴェール》を冠った若い女が足早に向こうへ歩いて行く。姿こそ変っているけれど何んで彼女を忘れよう! それは紅玉《エルビー》に相違ない。それからの私の行動は自分ながら愚劣に思われる……やにわに私は走りかかって紅玉《エルビー》を腕に引っ抱えた。紅玉《エルビー》の背後から追跡《つ》けて来た一人の大きな欧羅巴《ヨーロッパ》人が突然私の邪魔をした。……不意にその時闇の中から無数の人間が飛び出して来て私と欧羅巴《ヨーロッパ》人とを打ち倒し紅玉《エルビー》を箱の中へ入れようとした。……箱から現われ出た大猩々《おおしょうじょう》! 私はそのまま気絶して再び呼吸《いき》を吹き返した時には四辺は寂然《しん》と静まり返り、一人さっきの欧羅巴《ヨーロッパ》人が死んだように倒れているばかりだ。私の負傷は軽かったので疲労《つか》れた足を引きずり引きずり、汽船の料理人《コック》部屋へはいり込んで深い眠りに墜ちてしまった。
 航海は大変無事であった。台湾海峡も事なく通りやがて香港《ホンコン》へ到着した。南支那海を南東に向けて再び航海は続けられた。フィリッピン群島を左に見て英領ボルネオの首府サンダカンへ次第次第に近寄って行った。航海はこれまでは無事であった。しかし偶※[#二の字点、1-2-22]《たまたま》ラブアン島辺へ正午頃船が差しかかった時突然大難が起こったのであった。すなわち、海賊――袁更生の船が汽船を沈没させたのであった。
 私は海へ飛び込んだ。鮫《さめ》や悪魚の住んでいる海へ。それでも私は喰われもせずしばらくの間泳いでいた。その時短艇《ボート》がどこからともなく私の側へ漂って来た。疲労《つか》れた手足を働かせて私はボートへ這い上がった。人影はなくて肉の砕片が真紅に船底を濡らしている。そしてそこには一本の櫂と一挺の短銃と若干《すこしばかり》の弾丸と万年筆と手帳とが血に穢れて散らばっている。恐らく誰かが短艇《これ》に乗って、賊から遁がれようとしたのだろう。しかるに不幸にも賊に見つかって鉄砲で撃たれて海へ落ちたのだろう。――死んでその人は不幸ではあるがおかげでこっちは大助りだ! こう思いながら四辺《あたり》を見ると既に賊船の姿はなくて今まで乗って来た汽船の影さえどこの波間にも見えなかった。私はホッと安堵してそれからボートを漕ぎ出した。間もなく日が暮れて夜が来た。激しい空腹と疲労とは私を昏睡《ねむり》に引っ張り込む。今眠っては危険である! 死に誘惑される眠りであると、心の中では思いながらいつか眠りに捕えられた。
 ……幾時間私は眠ったろう……
 何者か私の全身を摩擦している者がある。嫋《しなや》かではあるが粗《あら》い手で私の全身《からだじゅう》を擦《さす》っている。その快い触覚が疲労と苦痛とで麻痺している私の肉体《からだ》を労《いた》わってくれる。私の意識は次第次第に恢復するように思われた。どうかして一目眼を開こう、眼を開いて私を労わってくれる親切な人を見ようとしても重い眼瞼《まぶた》は益※[#二の字点、1-2-22]重くどうすることも出来なかった。それでも私は努力した。そしてようやく薄目を開けてあたりの様子を見ようとした。するとその時私の体を撫で廻していた手が止まった。いくらあたりを見廻してもそれらしい人の姿もない。ただここに一つ不思議なことには日光から私を防ぐため棕櫚《しゅろ》で拵えた大きな笠が私の体を蔽うている。そして砂地に足跡がある。跣足《はだし》の人間の足跡である。その足跡は海岸の背後《うしろ》の大森林まで続いている。岸辺を見ると繋ぎ止められたボートが水に浮かんでいて舟の中には元通り短銃《ピストル》や万年筆が置いてある。私はそこまで這って行ってそれらの物を取って来たが、もう這うことも出来なくなった。私は腹を砂の上へ丸太のように転ってそのまま昏々と眠りに入った。そうして再び目覚めた時には私の側に椰子の果実《このみ》と呑み水とが一椀置いてあった。果実《このみ》を食って水を飲むと私はようやく元気づいた。棕櫚笠を頭に戴いて短銃と弾丸帯を腰に着けて手帳と万年筆とは下衣に隠して林の方へはいって行った。何より先に蘇生させてくれた恩人の姿を見つけようと足跡を手頼《たよ》りに進んで行ったが、林へはいると雑草に蔽われ見出すことが出来なかった。雑草は丈《たけ》延びて身丈《せい》よりも高く林の中は夜のように暗い。喬木はすくすくと空に延し上がり葉と葉は厚く重なり合い数町あるいは数里に渡って緑の天蓋を造っている。太古のままの静けさが森林の中に巣食っている。鳥も啼かず人影もなく風さえ葉の壁に遮《さえぎ》られて林の中までは吹いて来ない。
 自然の厳粛に打ち拉《ひし》がれて私は茫然と立ち尽くした。いったいどうしたらいいのだろう? これから俺はどうしよう? こう思って来て自分ながら恐ろしい運命に戦慄した。



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