国枝史郎「沙漠の古都」(27) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(27)

        二十七

 どっちへ行こうかと森林の中を途方に暮れて見廻した時、またも奇蹟が発現《あら》われた。こっちへ来いというように丈なす草が苅り取られ小径が出来ているではないか!
「足跡の主に相違ない」
 私はすぐにこう思った。それで少しも躊躇せずに小径を奥へ歩いて行った。私は幾時間歩いたろう? 体が綿のように疲労《つか》れて来た。私は一歩も進めなくなった。ここでこのまま倒れたなら猛獣毒蛇の恐ろしい牙がすぐにも噛みつくと思いながらどうすることも出来なかった。歯朶《しだ》の葉の茂っている地面の上へ私はパッタリ腰を下ろした。すぐに睡眠《ねむり》が襲って来る。私は眠りに落ちたらしい。眠りながら私は手の触覚を体の全体に感じていた。嫋《しなや》かではあるが粗い掌の絶え間ない触覚を感じていた。
 どれだけ眠ったか私には一向見当がつかなかった。眼を開いて見ると朝だと見えて厚く重なった葉の天蓋から二筋三筋日光の縞が黄金《きん》線のように射していた。林の中の諸※[#二の字点、1-2-22]の葉は朝風に揺れてさも嬉しそうに上下に舞踏《ダンス》を踊っている。そして私の枕もとには新鮮な果実《このみ》が置かれてある。私は朝飯をそれで済ますと体に勇気が充ちて来た。やおら私は立ち上がって森林の旅を続けようとした。その時何気なく四辺を見ると私のすぐ側の雑草の中に巨大な一匹のボルネオ虎が毒矢に貫かれて死んでいる。私は思わず飛び上がった。身の毛の慄立《よだ》つ思いをしながら死骸の側に彳《たたず》んだ。
「昨夜こいつがこの俺を餌食にしようと襲って来たのを、例の眼に見えない恩人が毒矢で射殺してくれたのだろう」
 私の心は感謝の念ではち切れそうに思われた。そして私はどんなことをしてもその恩人を発見《みつけ》だして思うさま感謝を捧げないことにはどうにも気がすまなく思われて来た。私は毒矢を抜き取って仔細にそれを調べて見た。土人の使う弓矢である。鏃《やじり》の先には飴色をした毒液がたっぷり塗りつけてある。記念のためにその弓の矢を私は大事に手に持って先へ的《あて》なしに進んで行った。昨日のように雑草の中に一筋径が出来ている。朝風が止むと林の中はまた音もなく静まり返って陽の光さえ幽《かす》かになった。草の丈は益※[#二の字点、1-2-22]高くなる。喬木はいよいよ生い茂ってどこで尽きるとも想像がつかない。今の私の境地ほど寂しい境地はないだろう。しかし私は私を守る例の恩人が絶えずどこかで見張っていてくれると思うので寂しくも恐ろしくも思わなかった。私は私の恩人についていろいろ想像を廻《めぐ》らして見た。毒矢を使う上からはこの島の土人に相違ない。しかし私を撫《さ》すった時の嫋かな手付きを考えて見るに男のようには思われない。それでは土人の女だろうか?
「土人の女がこの俺のような支那の若者をこう熱心に保護してくれる所以《いわれ》がない」
 こう思うにつけてもいよいよ私はその恩人を一目なりとも見たい希望に燃え立った。
 その日も林で一日暮らして三日目の昼頃になった時少し林がまばらになって空の蒼味と陽の光とがいくらか仰がれる小丘へ出た。見るとその丘の頂きに三本の樫の木が立っていて、二丈あまりの高い所に風雨に曝《さ》らされた木小屋が一ついかにも厳重に造られてあって、丈夫な縄梯子が掛かっていた。小屋の古さに比らべて縄梯子はまだ新らしい。私は丘へ上って行って注意深く小屋を見上げて見た。その構造でその小屋が猛獣狩りに用立てるためずっと昔に造られたもので、今はもう誰もその小屋には住んでいないという事が感じられた。猛獣狩りの小屋だけに素晴らしく厳重に造られてある。四方の板壁には規則正しく三つずつの銃眼が造られてあるし正面の扉などは錆びてこそおれ鉄の一枚板でつくられてある。
 私は念のため小屋に向かって幾度も呼んで見た。もちろん答えるものもない。そこで私は決心してそろそろと縄梯子を上って行った。小屋の内には予想した通り人間の住んでいる気配もない。ガランとして空虚である。熱帯蜘蛛《ぐも》の大きな網が到る所にかかっている。床には塵埃《ほこり》が積もっている。そして木椅子や卓子が五人前ちゃんと揃っている。室は二つに仕切られてあった。奥の小部屋は寝室と見えてボロボロの寝具が敷かれてある。
「五人の勇敢な猟師どもがボルネオ虎や猩々や馬来《マレー》種の猪を獲るためにこの小屋の中に閉じこもって銃眼から猟銃を発《う》ったものらしい。沢山獲物が出来たので小屋をそのまま放擲《うっちゃ》ってどこかへ立ち去って行ったのだろう。風雨に曝らされた板壁の様子や床に積もった塵埃《ごみ》から推すと、三年、五年、もっと以前《まえ》から小屋は造られてあったものらしい」
 こう思いながら尚私は室の様子を見廻した。すると今まで気が付かなかったが室の片隅のテーブルの上に、果実《このみ》がうず高く積んであって椰子の実で拵えた椀の中に飲料水さえ盛ってある。ちょっと驚いて眼を見張ったがそれでもすぐに感付いた――
「眼に見えない例の恩人」が昼食を送ってくれたのだろう。
 そこで木椅子へ腰掛けて味の好い賜り物を頂戴した。それから小屋に別れを告げて縄梯子を伝って下りようとした。その縄梯子が見当らない。ほんの先刻まで掛かっていた棕櫚縄の梯子が見当らない。私は呆然と突っ立ったまま考えることさえ出来なかった。
「これはいったいどうしたんだ!」私は声を筒抜かせて無意味に室の中を見廻した。ほんとにこれはどうしたんだ! 棕櫚縄の梯子は私の足もとに手繰《たぐ》られて置かれてあるではないか! いったい誰が手繰ったんだろう? 云うまでもなく「恩人」だ! どういう意味で手繰ったんだろう?
「ほんとにどういう意味だろう?」
 私はしばらく考えた。
 私の胸へ光明が一筋しらしらと白んで来た。
「そうだ!」と私は膝を打った。「小屋に住めという謎なんだろう! 雑草を苅って径をつけてここまで私を導いて来て梯子を外ずしたというのだからこれより他に考えようはない……住めというなら住むことにしよう。住みよさそうな小屋でもあるし猛獣の害から遁がれることも出来る。的《あて》なしに林を彷徨《さまよ》うよりここにいた方がよさそうだ」
 私はにわかに決心して室の掃除に取りかかった。それから自分で縄梯子を掛けて林の方へ枯草を採りに――それで寝床を拵えるつもりで――雑草を分けてはいって行った。
 その日とそしてその翌日と二日かかって小屋の中を規則正しく片附けた。今のところ食料と飲料水とは「見えぬ恩人」が持って来てくれるので心配する必要はなかったけれど、いつそれが中止《やめ》になるかもしれぬ。自分で食物と飲料水とを供給することに心掛けなければ困難な目を見るだろう……このように私は考え付いたので果実《このみ》の所在と泉の出場所とを毎日熱心に探し廻った。
 私はこんなように考えた……。
「こんな厳重な小屋を造って猛獣狩りをした位だから、十日か二十日で小屋を見捨てて立ち去って行った筈はない。一月や二月は小屋に籠もって生活していたに相違ない。あるいは半年も一年もここに籠もっていたかもしれない。それではその間を猟師達は市《まち》から持って来た食料や水で、生活をしていたろうか? 五人の猟師の一年間の食料! それは随分大したものだ。とてもそれだけの大量の物をこの小屋へ貯えては置かれない。それでは彼らはどうしたろう? 自分の思うところでは恐らく彼らは食料や水を小屋の附近の林の中で求めていたに違いない! だからそいつをこの俺も林の中で見つけよう」
 幸いにも私のこの考えは間もなく事実になって裏書きされた。半哩《マイル》と離れない林の中で二つとも私は見つけたのであった。すなわち、泉と果物の樹とを……



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