国枝史郎「沙漠の古都」(29) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(29)

        二十九

 それと一緒に沼の方角で悲しそうな獣の吠え声がする。そして何物か薄を分けて沼の方へ辷って行くらしい。私はちょっと躊躇したが次の瞬間には沼を目がけて夢中のように走っていた。いずれまたきっと鰐のために友達を取られたと思ったからだ。しかし私は十間と走らず思わずギョッと立ち止まった。あまりの恐ろしさに私の体は一時にゾッと鳥肌立って頭の髪さえ逆立った。私の体で役立つものは見開いた二つの眼ばかりで手も足も力を失ってしまった。
 一頭の大鹿を横に喰わえた一匹の蟒蛇《うわばみ》が蜿蜒と目の前の雑草を二つに分けて沼の方へ駛《はし》っているではないか! 私の友達の山羊や小猿がお喋舌りを止めた筈である。私さえ一声も出せなかった。蟒蛇の姿が沼の中へ全く沈んでしまった時やっと魂を取り返した。私は初めて悲鳴を上げ沼とは反対の方角へ足を空にして走り出した。すると一度に山羊も猿も私の後から叫びながら気狂いのように走って来た。
 私のその時の恐怖と云ったらその夜全身発熱して二日というもの小屋の中から一歩も戸外へ出られなかったというそういう事実に徴しても知れる。全くそれは私にとっては産まれて初めての恐怖であった。
 しかし間もなくその次に起こった「あり得べからざる奇怪の事件」「人類学上の一大奇蹟」その怪事件に比較してはほとんど恐怖とは云えないかもしれない。
「人類学上の一大奇蹟」! それはいったいいつ起こったのかというに、鹿を呑む大蛇を眼に見てから十日ほど経ったある日のことで、その日私は小屋に籠もって煙草ばかりポカポカ吹かしていた。小屋の外では山羊や猿や独唱好きの小鳥などが、私を呼び出そうとするかのように賑やかに絶え間なく喋舌っている。風もないかして林の中は森然《しん》と静まり返っている。
 彼らの呼び出しに応じようともせず私はいつまでも室にいた。
 するとにわかに彼らの声が糸を切ったように断ち切れた。糸を切ったように絶えた時にはいつでも恐ろしい彼らの敵が彼らを襲う時である。何物が襲って来たのだろうと私は耳を傾けた。その時遙《はる》か林の方から不思議の叫び声が聞こえて来た。林に住むようになって以来かつて一度も聞いたことのない得体の知れない声である。悪漢に襲われた若い女が必死の場合に上げるような物凄い断末魔の叫び声に似てそれより一層悲しそうな声だ。私は腰掛けから飛び上がって林に向いている銃眼から声のする方を眺めて見た。私の見たものは何んであったろう? 巨大漢《ジャイアント》! 巨大漢! 否怪物《モンスター》だ! 漆黒の毛に蔽われた身丈《みのたけ》ほとんど八尺もある類人猿《ピテカントロプス》がただ一匹樹枝を雷光のように伝いながら血走る両眼に獲物を見すえ黄色い牙を露出《まるだ》しにしてその牙をガチガチ噛み合わせながらこっちに向かって飛んで来る。彼の著しい特色というのは長い尻尾を持っていることでその尾はちょうど手のように自由の運動《はたらき》をするらしい。すなわちその尾を枝に巻きつけて全身《からだ》の重みを支えるばかりか時にはその尾を振り廻して行手を遮《さえぎ》る雑木を叩くと丈夫の生木さえその一撃で脆《もろ》くも二つに千切れて飛んであたかも鋭い鉞《まさかり》なんどで立ち割ったようになるのであった。尾を持っている類人猿《ピテカントロプス》! その有尾人猿に追いかけられて悲鳴を上げながら逃げて来るのは土人の若い女であった。長髪を背後へ吹きなびかせて恐怖に見開いた大きな眼を小屋の方へ高く向けながら足を空にして走って来る。赤銅《しゃくどう》色の逞《たくま》しい四肢は陽に輝いて白く光り腰の辺に纒った鳥の羽根は棕櫚の葉のように翻えり胸を張って駈けるその姿は土人とは云え美しい。追われるものも追うものも忽ち林を駈け抜けて丘を巡った空地へ出た。有尾人猿は樹の枝から巻いていた尻尾を放すと一緒に鞠《まり》のように地上へ飛び下りたが、両の拳を握ったり開いたり拳の先を時々地につけ牛のような肩を前のめり[#「のめり」に傍点]に出して踊るようにして追って来る。疲労《つか》れを知らない有尾人猿に次第次第に追い詰められて土人乙女は恐怖のため走る足がだんだん鈍くなった。そして小屋の中にこの私が住んでいることを知っているかのように、両手を小屋の方へ差し上げて例の悲しそうな断末魔の声を繰り返し繰り返し叫ぶのであった。乙女の叫びに誘われて私の心は揮い立った。麻痺していた手が自由になった。私は拳銃を取り上げて小屋の扉を蹴開いて縄梯子を伝わって丘へ下りた。それから少しの躊躇《ちゅうちょ》もせず乙女の方へ走って行った。こうして乙女を背後へ囲い有尾人猿の猛悪な姿へヒタと拳銃を向けた時私の勇気は挫けなかった。
 不意に私が現われたことが尾のある人間を驚かせたと見えて彼は一瞬間立ち止まった。しかしその次の瞬間には雷のような嘯きを上げながら疾風のように飛びかかった。彼の両手が私の体へまさに触れようとした時に私の拳銃は鳴り渡った。しかも続けざまに三発まで。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送