国枝史郎「沙漠の古都」(30) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(30)

        三十

 有尾人猿の山のような体がもんどり打って地に倒れると、それまで隠れていた山羊や小鳥や小猿の群が林の中からやかましく喋舌りながら現われて来た。人猿の周囲《まわり》を取り巻いて彼らは一斉に廻り出した。ちょうど凱歌でも奏するように廻りながら叫び声を上げるのであった。
 土人乙女はどこにいるかと私は背後《うしろ》を振り返った。すると乙女は今までの恐怖が一度になくなったためでもあろうが、両手をダラリと脇へ垂れて人猿の姿を見守っていたが、振り返った私の顔を見ると南洋土人の熱情を現わし、いきなり私へ飛びついて逞しい腕で私を抱えて私の胸へ顔を押し当て全身を顫わせて絞めつけた。感謝の抱擁には相違ないが余りに強い腕の力で無二無三に絞め付けられ思わず悲鳴を上げようとした。乙女はそれに気がついたと見えて腕の力を弛めたがその代り今度は私の体を隙間なく唇で吸うのであった。乙女のやるままに体を委かせて私はじっと立っていたが夢中で接吻する乙女の顔へ思わず瞳を走らせた。どうして蛮女の顔だなどと軽蔑することが出来ようぞ! 何んという調った輪廓であろう! 土人特有の厚い唇もこの乙女だけには恵まれていない。欧羅巴《ヨーロッパ》人のそれのように薄く引き締まっているではないか。そしてその色の紅いことは! 珊瑚を砕いて塗りつけたようだ。高く盛り上がった厚い鼻も情熱的の大きな眼も南洋の土人というよりも欧州人に似ているのであった。
 彼女の情熱が和んでから手真似《てまね》でいろいろ話して見た。その結果私の知ったことは、「眼に見えない私の恩人」というのは彼女であったということと、四哩《マイル》を隔てた森林の中に土人の部落があるということと、今その部落は合戦最中で敵の軍中には白人がいるので手剛《てごわ》いなどということであった。
 そこで私は彼女に従いて彼女達の部落まで行って見ようと早くも決心したのであった。

 その日私と土人乙女とは部落を差して出立した。道々私は尚手真似でいろいろのことを聞き出した。私を一番驚かせたのは土人部落に私と同じような支那人がいるということであった。しかも大勢の人数であって、その大勢の支那人達は部落の土人に味方して白人達に引率《ひき》いられている侵入軍を向こうに廻して戦っているということであった。
 とにかく部落へ行って見たら万事明瞭《はっき》りするだろうと歩きにくい道を急ぐのであった。この美しい土人乙女が縁も由緒《ゆかり》もないこの私を、どうして助けたかということも手真似によって知ることが出来た。彼女は私を一目見ると――すなわち海岸のボートの中に命も絶え絶えに気絶していた私の姿を一目見ると、南洋熱帯の乙女らしく憐れな姿の私に対して恋を覚えたということである。だから私を助けたので、そうでなければかえって私の肉を食ったろうということである。こんな恐ろしい事件《こと》を彼女は率直の手真似をもって一向平然として語るのであった。人の肉を食うダイヤル族! いかに彼女が美しくとも土人の血統は争われない。私はつくづくこう思った。そして恐ろしい蛮女によって恋い慕われるということがこの上もなく苦痛に思われた。しかし一方私にとって彼女は命の親である。燃えている彼女の熱情に向かって、無下に冷水を注ぐということも義理として私には出来なかった。しかし私には紅玉《エルビー》がある。紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》! ああ紅玉《エルビー》! 紅玉《エルビー》はどこにいるのだろう? 森林の中に生死も知らずこうやって暮らしている間も一度として忘れたことはない! 息のある限りはどんなことをしてもきっと必ず探し出して見せる! ……
 それにしても蛮女が私に対する熱情と誠実とをどうしよう! 彼女はいつでも私の前を用心しいしい歩いて行く。毒蛇や猛獣の襲撃から私を防ごうためである。鰐のおりそうな川まで来ると彼女は私を背に負って素早く水を渡るのであった。
 わずか四哩《マイル》の道程をほとんど十時間も費して土人の部落へ着いた時には既に真夜中に近づいていた。
 夜中の満月は空にかかりその蒼茫とした月光の下に、茅葺きの小屋が幾百となく建て連らなっている一劃がすなわち土人の部落であった。侵入軍を相手として合戦中であるからでもあろう部落の中は騒がしかった。私は木蔭に身を隠しながら部落の様子を窺った。諸所で焚火をしていると見えて薔薇色の火光が天に上り蒼白い煙りが立ち上っている。土人達の叫び声や矢を放す音や小銃の音さえ聞こえて来る。
 この私の驚いたことはそれらの雑音に打ち混って立派な支那語の話し声が明瞭《はっき》り聞こえて来ることであった。尚一層私を驚かせたのは北京《ペキン》で聞いた例の詩《うた》があざやかに聞こえて来ることであった。
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古木天を侵して日已に沈む
…………
巨魁来巨魁来巨魁来
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「袁更生一味の海賊どもがあすこにいるに違いない!」
 私はすぐにこう思った。体中の血汐が復讐の念に思わずカッと燃え上がった。



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