国枝史郎「沙漠の古都」(32) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(32)

        三十二

 明るい満月に照らされて、土人の小屋の裏庭の様子が手に取るように眺められた。霜の降ったように白く見える庭の地面に銀毛を冠った巨大な猩々《しょうじょう》が空に向かって河獺《かわうそ》のように飛んでいる。その猩々をあやすように、両手を軽く打ち合わせているのは白衣を纒った少女である。振り仰ぐ顔に月光が射して輪廓があざやかに浮かび出た。まごう方なき紅玉《エルビー》である!
 前後の事情をも打ち忘れて私は前へ走り出た。
「紅玉《エルビー》!」
 と私は絶叫して彼女を両手で抱こうとした。すると猩々が走って来て二人の仲を遮《さえぎ》った。鈴のような眼で私を睨み紅玉《エルビー》を背後へ庇《かば》おうとする。
「どなた!」
 と紅玉《エルビー》は、聞くも慕わしい昔通りの声で訊いた。
「どなたって俺に訊くのかい。張教仁だ! 張教仁だ!」
 しかし紅玉《エルビー》は感動もせずに、私の顔を見守ったが、
「張教仁さんて! どなたでしょうね? ……そうそうやっと思い出しました。そういうお方がありましたわ、ずっとずっと昔にね……羅布《ロブ》の沙漠で逢いましたっけ、芍薬《しゃくやく》の花の咲く頃まであなたと一緒におりましたわ……そして桐の花の咲く頃にあなたの所から逃げましたわ。けれどとうとう発見《みつか》って好きな好きな阿片窟からあなたの所へ連れ帰られてどんなに悲しく思ったでしょう……それからまたも逃げました。そうよ、あなたの所からよ……私には恋人がありますのよ。可愛い可愛い恋人がね! さあ銀毛や飛んでごらん! 私の恋人はお前なのよ! さあ銀毛や飛んでごらん!」
 すると彼女の命ずるままに魔性の獣の猩々は空に向かって幾回となくヒラリヒラリと飛ぶのであった。
 空には満月、地には怪獣、女神のような恋人が白衣を纒って立っている……所は蕃地で人食い人種のダイヤル族の部落である……
 ……私はグラグラと目が眩んだ。発狂するんじゃあるまいか! 一方でこんなことを思いながら片手で拳銃を握りしめ銃口を猩々に差し向けた……

 ……それから私は何をしたか判然《はっき》り自分でも覚えていない。とにかく私はダンチョンと一緒に土人に追われながら逃げていた。ダンチョンの縄を誰が解いたのか(もちろん私には相違ないが)どうして解くことが出来たのか、それさえ判然とは覚えていない――私の覚えていることは拳銃を射ったことである。いったい誰に射ったのか? 猩々に向かって射ったらしい? 何のために猩々を射ったのか? 紅玉《エルビー》を誑《たぶら》かす悪獣であるとこのように思ったからである。何故そのように思ったのかどうして説明出来ようぞ! ただ直感で思っただけだ! 私の射った拳銃の弾は不幸にも悪獣には当らなかった。ただ驚かせたばかりである。驚いた悪獣は一躍すると紅玉《エルビー》の体を引っ抱えた。そしてスルスルと立ち木に上ぼった。大事そうに紅玉《エルビー》を抱いたままヒラリと他の木へ飛び移った。こうして次々に梢を渡って林の中へ隠れ去った。それっきり彼らとは逢わないのである……。
 私とダンチョンとは物をも云わず土人の声の聞こえない方へ力の続く限り走って行った。そして全く力が尽きて二人一緒に倒れた時には夜が白々と明けていた。猛獣の害も毒蛇の害も疲労《つか》れた私達には怖くもない。そこでグッスリ寝込んだのである。
 その日の昼頃ようやく私は小屋を探し当てた。しばらく二人とも無言である。木椅子へグッタリ腰かけたままダンチョンも私も黙っている。幾時黙っていただろう? それでもやっとダンチョンは懶《ものう》い声で話し出した。
 私はダンチョンの話によって探検隊の一行が土人部落から一哩《マイル》離れた護謨林の中に戦闘のための砦を造って立て籠もっていて、今日かもしくは明朝あたり焼き打ちの計で土人部落の総攻撃をやる筈だと、そういう事を知ることが出来た。それにもう一つその探検隊の目的というのを知ることが出来た。話によればこの小屋から西南の方角へ十哩《マイル》行けばそこに険しい山があって山の麓《ふもと》には湖がある。その湖の底にこそ私達が長らく探していた彼の羅布《ロブ》人の一大宝庫が隠されてあるということであった。
「これは最近の発見だが、博言博士のマハラヤナ老がダイヤル土人の捕虜の口からこういうことを聞いたそうだ――それは湖底のその宝庫を有尾人という原始人が守っているという事だがね。それが獰猛《どうもう》の人種でね、さすが兇暴のダイヤル族も有尾人にだけは恐れていて接近することを忌むそうだ」
「有尾人なら僕は見たよ」
 私は先日《このあいだ》の出来事を掻《か》いつまんで彼に物語った。それから私は彼に訊いた。
「全体どうして土人になんか君は捕虜《とりこ》になったんです?」
「それがね」とダンチョンは苦笑して、「ラシイヌさんやレザール君が(描かざる画家ダンチョン)だなんて僕に綽名をつけるので、一つこの島の風景でも描いて名誉恢復をしようと思って、それで昨日もカンヴァスを持って林をブラブラ歩いているうちに土人の部落へ出てしまったのさ」
 ダンチョンは暢気《のんき》そうに笑うのであった。

 その日の夕方、林の彼方に噴煙が高く上がるのを見た。焼き打ちに遇った土人部落が火事を起こしているのであろう。夜に入ると焔《ほのお》の舌が、空にヒラヒラ現われた。
 林の鳥獣は火光に恐れて小屋の根もとへ集まって来た。猪は鼻面で土を掘ってその中へ自分を隠そうとする。栗鼠《りす》は木の幹を上り下りしてキイキイ声で鳴きしきる。山鳩は空を輪のように舞って一斉に下へ落として来てもすぐまた空へ翔け上がる。豹は岩蔭で唸っているし水牛は萱《かや》の中で顫《ふる》えている。
 火光は益※[#二の字点、1-2-22]拡がった。部落を悉く焼きつくしてどうやら林へ移ったらしい。
 南洋原始林の大山火事!
 鹿や兎や馴鹿《となかい》は自慢の速足を利用して林から林へ逃げて行く。小鳥の群は大群を作って空の大海を帆走って行く。斑馬の大部隊は鬣《たてがみ》を揮って沼の方角へ駈けて行く。
 火足は次第に近付いて来る。煙りは小屋を引き包んだ。
 私は拳銃《ピストル》をひっ掴み、土人乙女が置いて行った弓矢をダンチョンに手渡すや否や二人は小屋から飛び下りて、走る獣の中に混って風下の方へ逃げ出した。



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