国枝史郎「猿ヶ京片耳伝説」(05) (さるがきょうかたみみでんせつ)

国枝史郎「猿ヶ京片耳伝説」(05)

    怪しの男

 でもお蘭にはそんなことは気が付かないらしく、
「どうしたって変な人ね、湯治に来たくせに、湯へはいっていいかいなんて。……おはいりなさいよ」
「じゃアはいろう」
 男は湯槽《ゆぶね》の中へ下りて来た。すぐ沈んだ。
「湯の中へ頬冠りしたままではいるなんてことないわ。おとりなさいよ」
「取らねえ方がいいようだ」
「何故よ」
「恐がるといけねえ」
「誰がよ」
「娘っ子が」
「あたし? フーッ。……湯屋の娘が男の顔見て恐がっていたのでは商売にならないわ。フーッ。明日は雨よ、今夜のお湯とても湯気が濃いんだもの。匂いだって強いし。……こうと、あんたきっと猟師《かりゅうど》さんね」
「猟師?」
 と男は吃驚《びっく》りし、
「何故だい?」
「いい体しているもの。……骨太で、肉附きがよくて、肩幅が広くて……」
「猟師じゃアねえ」
「じゃア樵夫《きこり》さんね」
「樵夫だって」
 吃驚りして、
「違う」
「そう」
「お前さん何んていう名だい?」
 と今度は男が訊いた。
「お蘭ちゃん」
「ふうん。そのお蘭ちゃん幾歳《いくつ》だい?」
「十七」
「年頃だ」
「そうよ。だから妾《わたし》来月お嫁に行くんだわ」
「どこへ?」
「進一さんの所へ」
「親しそうに云うなア。以前《まえ》から知ってる男かい?」
「幼な馴染なの」
「お前さんを可愛がっているかい?」
「雪弾丸《ゆきだま》投げつけてよく泣かせたわ」
「ひどい野郎だな」
「あたしの泣き顔が可愛いのでそれが見たかったんだって」
「負けた」
 と男ははじめて笑った。好意ある笑い方だった。
 この時、また鋭い笛の音が谷の方から聞こえて来た。と、それに答えて、山の方からも同じような笛の音が聞こえて来た。
「チェ」
 と男は舌打ちをした。
「取巻きゃアがったな」
「何よ?」
 とお蘭は聞き咎めた。
「取巻いたって?」
「猛々《たけだけ》しいケダモノを取巻いたというのさ」
「猪? ……だって、季節《しゅん》じゃアないわ」
「猪よりもっと恐ろしいケダモノだ」
「何んだろう?」
「邪悪――そうだ、女をとりわけ憎んだっけ。……強盗《おしこみ》、放火《ひつけ》、殺人《ひとごろし》、ありとあらゆる悪業を働いた野郎だ」
「じゃア『三国峠の権《ごん》』のような奴ね」
「知ってるのか?」
「三国峠の権の悪漢《わるもの》だってこと、誰だって知ってるわ。でも、その権、ご領主様に捕えられたじゃアないの」
「うん、沼田のお城下で、土岐様の手に捕えられたよ」
「お牢屋へ入れられたっていうじゃないの」
「その牢を破ったんだ」
「まア。いつ?」
「昨夜《ゆうべ》」
「まア」
「そいつがこの土地へ逃げ込んだらしい」
「どうして解るの?」
「捕り手がこの家《うち》を取巻いたからさ」
「じゃアこの家の中に?」
「うん。……恐いか!」
「恐いわ」
「だから俺はさっき恐かアないかと云ったんだ! 俺が権だ!」
 ヌーッと男は、湯から、巨大《おおき》な柱でも抜き上げたように立ち上がった。
「フーッ」
 とお蘭は湯気を吹いた。
「あたし思いあたったわ、あんたきっと役者ね」
「何んだって?」
「あんたきっと旅役者だわ」
「…………」
「とても芝居うまいものね」
 男は湯の中へ沈んでしまった。





[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送