国枝史郎「沙漠の古都」(34) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(34)

    第七回 宝庫を守る有尾人種(下)


        三十四

 蕃界の夜は明け始めた。私とそしてダンチョンとは黙って湖畔に立っていた。暁の寒さが身を襲うので私達はブルブル身顫いをした。空は次第に色着いて来た。鼠色、薄黄色、薔薇色……と湖水を囲繞《とりま》いている原始林は夢から醒めて騒ぎ出した。葉は葉と囁き枝は枝と揺れ幹と幹とは擦れ合って化鳥のような声を上げる。風が征矢《そや》のように吹き過ぎる。雲のように塊《かた》まった鳥の群が薔薇色の空を右に左に競争するように翔け廻る。湖水もだんだん色着いて来た。鉛色、鯖色、淡黄色、そして次第に桃色になり原始林に太陽が昇った時には深紅の色に輝いた。
 高原に囲まれ林に蔽われ湖水を湛えたこの別天地は、こうして夜が明け太陽が出て全く昼となったのであった。恐ろしい昨夜の大山火事はどっちの方角へ燃えて行ったものか、そんな恐ろしい山火事[#「山火事」は底本では「火山事」]などは全然どこにもなかったようにこの別天地は静かであった。
 しかし私にはこの別天地があまり静かであるがためにかえって物凄く思われて来た。豹の鳴き声でも聞こえるといい、猪が林から出て来るといい、そうしたら若干南洋のボルネオの島にいるのだという境地に対する安心の念が自然に心に起こるだろうに。あまりに四辺が静かであるためかえって恐怖心が起こるのであった。
 私と同じ恐怖の念がダンチョンの心にも起こっていると見えて、疑惑に充ちた眼付きをして彼はあたりを見廻していたが、突然私の肱を突いて嗄れた声で囁いた。
「見たまえあれを! あの顔を!」
 何故か私は「顔」という言葉がこの時ゾッと身に沁みた。それで私は眼を躍らせ彼の指差す方向へ周章《あわ》てて視線を走らせた。
 顔! 顔! 人間の顔! しかも一つや二つではない。ほとんど幾十という人間の顔が藪地《ジャングル》の木《こ》の間《ま》から私達の方を瞬きもせずに瞶《みつ》めている。それは確かに人間の顔だ。人間の顔には相違ないが、それが人間の顔だとすると何んという奇怪な顔だろう! 普通の人間の顔から見るとほとんど二倍の大きさはある。そしてその顔の五分の三はセピア色の毛で蔽われていて、巨大な鉄槌で打たれたかのように低く額は落ち窪み無智の相貌を現わしている。それに反して唇は感覚的に膨《ふく》れ上がり鼻より先に突き出ている。鼻翼ばかりが拡がって全然鼻梁のない畸形の鼻は眼と口の間に延び縮みして護謨細工の玩具でも見るようである。
 私は、余りの恐ろしさに、思わずダンチョンへ縋ろうとした。
「妖怪だ妖怪だ! いや蕃人だ!」
 私は思わず呻いたが、妖怪だと思ったその蕃人の、一番前にいた一匹が藪地からヒラリと飛び上がって喬木の幹へ抱き付きスルスルと梢へ昇るのを見て、それが妖怪でも蕃人でもなく思いもよらない類人猿の有尾人種であることを知った。
「ピテカントロプスだ! 有尾人種だ!」
 私はまたもこう呻いて、にわかに失望した眼を見張って、どこかに救い主はあるまいかと前後左右を見廻した。すると同じ恐怖のために気絶しかかっているダンチョンは、私の手を堅く握りながら怯えた声で叫び出した。
「百匹! 五百匹! 一千匹! ※[#「けものへん+非」、145-9]々めが四方から押し寄せて来る!」
 なるほど、そう云えば私達を囲んで、木間や藪の蔭や丘の上から黒雲のように叢《むら》がって、蛇のような尻尾を頭の上へピンと押し立てた人猿どもが、私達へジリジリと迫って来た。
 緑の森林、澄み切った湖水、絵のように美しいこの世界は、一度に人猿の出現によって恐怖の地獄と変ったのであった。しかし私はどんな事をしても恐ろしい人猿の爪と牙から遁がれなければならないと決心した。とは云えどうして遁がれたものか? 彼らの群へ飛び込んで行って人猿どもと格闘して彼らの群から脱しようか? しかし体量五十貫もある森林の原人と闘かって打ち勝つ希望《のぞみ》があるだろうか? そんな希望は絶対にない! それでは湖水へ飛び込んで泳いで対岸へ逃げようか? しかし対岸へ行き着いたところで、その対岸の森林にはやはり人猿が住んでいるだろう! それではどうして遁がれよう? どうしたら逃げることが出来るだろう?
 一瞬の時間も無駄にせず私はここまで考えて来た。そして到頭行き詰まった。その間も兇暴の有尾人種は蕃人特有の狡猾さをもって一歩一歩私達に近寄って来た。こうして彼我の間隔が十間余になった時、彼らは一斉に立ち上がった。何んという立派な体格であろう! もしも彼らに尾がなかったなら、そして全身に毛がなかったなら勇ましい立派な武人であろう……彼らは私達を取り巻いて忽然と踊りを踊り出した。私達二人を中心にして最初グルグルと左へ廻りそれから今度は右へ廻り、またもグルグルと左へ廻りそれからまたも右へ廻る、あたかも大水が渦巻くようにいつまでもいつまでも廻るのであった。



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