国枝史郎「沙漠の古都」(35) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(35)

        三十五

「こいつが彼奴らの策戦だな!」
 こう思った時にはもう私達は彼らの渦に巻き込まれて催眠状態に墜ちていた。
 ……緑……大空……人猿の顔……そして彼らの叫び声……湖水……日光……毛だらけの手……沢山の沢山の毛だらけの手が私達を地上から持ち上げた。そして緑の林を縫ってどこかへ私達を運んで行く……緑がだんだん深くなる。日光が次第に薄くなる……忽然、一人の老人が私達の前に現われた。何んという智識的の顔だろう。何んという立派な白髪《しらが》だろう。人猿達の先に立ってその老人は走って行く。人猿を指揮しているのだろう。神か? 予言者か? 救世主か? 神よ我らを助けたまえ! ……林の中は闇になった。再び日光が射して来た。緑の壁が揺れ動く。どこへ運ばれて行くのだろう? ……

 それは昔のことであった。今からざっと三十年も遡《さかのぼ》らなければならなかった。その頃一人の青年がボルネオの島を歩いていた。それは英国の動物学者で兼ねて考古学にも通じていた、青年の名はジョンソンと云ってさすが英人であるだけに冒険心に富んでいた。彼は考古学と動物学とのこの両様の学説を深く研究した結果によって、どうしても南洋のボルネオかイラン高原の大森林中に巨大な尾を持った人間が棲息しているに違いないという一つの確信を持つようになった。で彼は自分の学説がはたして確証を得るや否やを実検しようと決心した。そこで数人の同志を募り最初はペルシャの方面からイラン高原を探検した。しかしそこではそれらしい有尾人種にも逢わなかった。数人の同志は失望してそのまま英国へ帰ってしまったが、ジョンソンだけは決心を変えずに単身ボルネオへ渡ったのであった。
 彼は蕃人の襲撃や猛獣毒蛇の難を避けて長い日数を費したあげく、ようやく奥地までやって来たが有尾人種の影も見えない。自信の強いジョンソンももうこうなっては自分の説を押し通すことは出来なくなった。有尾人種などというものは浅墓《あさはか》な自分の妄想であって、世界のどこを探し廻ったところでそんなものは実際には存在しないとこう諦めざるを得なかった。
 彼はすっかり失望してどうしてよいか解らなくなった。猛獣の難を避けるため高い護謨の樹の頂きへ小屋を造ってその中で彼は幾日も考えたが、どうもこのままここを見棄てて立ち去ることが残念に思われ、やはりこのままこの地にとどまり、有尾人種はいないにしても他に珍らしい動物どもが沢山群れ住んでいるによって、せめてそれらを研究しようとようやく彼は決心した。で彼は真っ先に自分の住む小屋の修繕に着手した。それから食物と飲料水とを小屋の近くに発見してそれに改良を加えたりした。体を保護する武器としては拳銃一挺に弾薬若干とそして一振りの洋刀《ナイフ》だけで他には何にも持っていない――虎の啼き声、豹の呻き、月影蒼い夜な夜な群れて襲って来る狼などの物凄い吠え声に怯《おびや》かされながら、こうして蕃界奥地の生活がジョンソンの上に始まったのであった。
 一年二年――三年四年――五年の月日が経過した。森林に住んでいる鳥や獣のほとんど総《すべ》てと親しくなりほとんど総てを研究した。彼にとっては虎も豹も恐ろしいものではなくなった。性来《もとより》壮健の肉体が蕃地の気候に鍛練され猛獣と格闘することによって一層益※[#二の字点、1-2-22]壮健になり猿族と競争する事によって彼は恐ろしく敏捷となった。そうして彼はもうこの時には有尾人種の存在については全く前説を否定して考えさえもしなかったが、彼、すなわち、ジョンソン自身がちょうど人猿そのもののように完全の野人になり切っていた。森林を走るに、枝から枝幹から幹を伝わって風のように速く走ることも出来た。高い梢の頂上から藪地《ジャングル》の上へ飛び下りても少しも怪我をしないほど軽くその身を扱いもした。
 何んという愉快な生活だろう。何んという原始的の生活だろう。これがすなわち我らの祖先――人猿そのものの生活なのだ! 自然の食物、自然の飲料、自然の遊戯、自然の睡眠、ここには何らの虚栄もない。そして何らの褥礼もない。過去において自分が生きていたあの欧羅巴《ヨーロッパ》の社会生活もこれに比べたら獄屋のようなものだ。自分は心から謳歌する。この森林の生活を……
 ジョンソンは実際こう思ってこの蕃界の生活を恐れるどころか愛していた。そして再び欧羅巴《ヨーロッパ》などの虚飾に充ちた社会生活へは帰って行くまいと決心した。
 彼は鳥獣を愛《いつく》しみ鰐魚《わに》をさえも手《て》なずけた。彼には鳥獣の啼き声やあるいはその眼の働きやもしくは肢体の蜒《うね》らし方によってその感情を知ることが出来た。そして彼らが何を要求し何を嫌うかを察することが出来た。で彼は彼らの要求する事を飽きもせずに彼らにしてやった。その代り彼らも彼のためにいろいろの用事を足してやった。



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